あけましておめでとうございます。本年も紀行歴史遊学をよろしくお願いいたします。本日は巨大仏のご紹介をもちまして、初春のお慶びとさせていただきます。
旅の達人宮田珠己の名著『晴れた日は巨大仏を見に』を読んでいつか行きたいと思い、映画『下妻物語』を観て行かねばならぬと心に誓った大仏が、「牛久大仏」である。
「天網恢恢疎にして漏らさず」仏さまはどこでも見ていらっしゃいますよ。「釈迦の手のひら」しょせんは手のひらの上で踊っていただけであったか。「広大無辺の慈悲」仏さまはあまねく人々をお救いになります。こんなことが頭に浮かぶ。
仏の偉大さを目で確かめることのできる光景である。これがビルディングであれば何とも思わぬだろうが、同じ建造物でも人のような形なのでシュールさが醸し出されている。
自転車を走らせながら大仏を見ていると、大仏がゆっくりとついてくる。夜に月がついてくるのと同じ要領で。それほどに巨大な存在である。近付いてみよう。
比べるものがなくなると大きさが分からなくなった。この日の空はどこまでも澄んでいて、もし仏像から後光が発せられていても素直に受け入れたと思う。それほどに宗教の力は偉大である。
紹介が遅れました。牛久市久野町に「牛久大仏」がいらっしゃいます。正式には「牛久阿弥陀大仏」である。高さ120mは1995年に青銅製立像として世界一としてギネスブックに登録されている。
シュールな風景はグーグルマップのストリートビューでも見ることができる。台座を除くと身長約100mで、顔の長さが20mだから5等身の仏さまである。
巨大な大仏なんぞ酔狂なリッチマンが建造したのかと思ったら、親鸞聖人以来800年の法統を誇る格式高いお寺による造立であった。南無阿弥陀仏。
そのお寺とは「浄土真宗東本願寺派本山東本願寺」である。本願寺の歴史をおさらいしよう。
本願寺は織田信長との10年戦争を戦った第11世顕如の後に、秀吉・家康との関係を巡って東西に分立することとなる。秀吉から認められた第12世は3男の准如であったが、家康は長男の教如を支援した。以後、准如の流れが西本願寺(浄土真宗本願寺派)となり、教如の流れが東本願寺(真宗大谷派)となる。
真宗大谷派は第24世「闡如」(せんにょ・大谷光暢)の時、4派に分かれることとなった。お東騒動である。
長男光紹はいったん後継者である新門となっていたが真宗大谷派から独立したため、代わって光紹長男の光見が新門となったが、やがて父が昭和63年に法統を受け継いで立てた「浄土真宗東本願寺派」に転じた。第25世は興如(光紹)、第26世は聞如(光見)である。本山は東本願寺(台東区西浅草一丁目)である。
二男暢順の長男業成は光見離脱の後に新門となり、平成5年の第24世闡如遷化の後に第25世を継承したが、平成8年に父と共に真宗大谷派から独立した。第25世は經如(暢順)、宗派名は浄土真宗大谷本願寺派、本山は本願寺(京都市山科区上花山旭山町)である。昭和62年に本願寺(東本願寺)が宗教法人ではなくなり「真宗本廟」とされたことに反対し、本願寺の寺基を移し法灯を復活した。
三男暢顯は平成5年の第24世闡如遷化の後に、その後継者として平成8年に第25世を継承する。法名は淨如である。宗派名は真宗大谷派、本山は真宗本廟(京都市下京区烏丸通七条上る)で、東本願寺は通称である。ちなみに業成の第25世継承は公式には記録されない。
四男暢道(光道)は第25世秀如として平成17年に本願寺を嵯峨野(京都市右京区嵯峨鳥居本北代町)で再興した。東本願寺嫡流を称している。
以上、詳細に書き連ねたが、牛久大仏は長男系統の浄土真宗東本願寺派本山東本願寺の関連施設である。平成4年に完成した。
宗教的な背景が複雑で分かりにくいといえばそうだし、よくある後継者争いのようで興味深くもある。しかし牛久大仏の魅力の理解に知識はいらない。親鸞の説く易行とはこのことであったかと思わせるインパクトである。宮田珠己『晴れた日は巨大仏を見に』(白水社)は次のように指摘している。
「うわ、出た!」というその瞬間の衝撃を堪能することが、この旅行の究極の目的と言ってもいいのであり、極論すれば、そうやって見たらもう帰ってもいいぐらいのもんなのである。
私は漢方のツムラの茨城工場沿いの道を通って大仏に向かったのだが、視界に大仏が入った途端の驚きは上記引用のとおりだった。晴れた日に巨大仏を堪能できて幸せな一日であった。南無阿弥陀仏。
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