『花燃ゆ』はいよいよ吉田松陰のパワーが全開へと向かい、早くもクライマックスを迎える勢いだ。今日は国学の話をしたいのだが、松陰の革命思想にはどれほど国学が影響しているのだろう。
平田篤胤の過激さは吉田松陰に相通じるものがある。篤胤の師匠が本居宣長、その師匠が賀茂真淵、その師匠が荷田春満ということになる。だが、国学の要諦は古典研究であり革命思想とは関係がない。篤胤は少々異端に思える。
それでも、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤の四人は「国学の四大人(しうし)」と並び称されている。彼らの大師匠となるのが僧契沖であり、以前に「神となった国学の鬼才」でレポートした。
浜松市中区東伊場一丁目の縣居神社(あがたいじんじゃ)の拝殿前に「縣居翁霊社」と刻まれた石碑がある。
縣居翁とは当地出身の賀茂真淵のことで、県居とは真淵の江戸での住まいである。「賀茂真淵県居の跡」は東京都中央区日本橋浜町一ノ四付近ということだ。
縣居神社の御祭神はもちろん賀茂真淵大人命(かものまぶちうしのみこと)である。大人は師匠とか先生という意味だ。縣居神社は天保十年(1839)の創立である。その当時の浜松藩主は有名な老中水野忠邦であった。
「縣居翁霊社」碑の裏面である。次のように刻まれている。
天保癸巳八月末學領主侍従源朝臣忠邦書
天保癸巳は天保四年(1833)、忠邦は西の丸老中となっていたがまだ本格的に国政に携わっていなかった。本丸老中に抜擢されるのはその翌年である。
忠邦は地元の高林方朗(たかばやしみちあきら)に国学を学び、賀茂真淵の顕彰に労を惜しまなかった。碑銘中の「末学」は、忠邦自身が国学を学んでいる者だとのへりくだった姿勢を表している。学問上の系譜では賀茂真淵-本居宣長-高林方朗-水野忠邦となる。
この碑が先に建てられ、その後、社殿が完成したようだ。神社の創立日は天保十年(1839)3月22日となっている。この年の12月に忠邦は老中首座となり、大御所家斉死後の天保12年(1841)に天保の改革を開始した。
天保の改革は一般的に失敗と評価され、水野忠邦も保守反動と見られることが多い。庶民からは恨みを買い、幕府からは懲罰的な処遇を受け、失意のうちに亡くなった。彼の墓は「辣腕老中ここに眠る」でレポートしている。
評価の芳しくない天保の改革であるが、株仲間の解散こそは、安倍首相がお手本とすべき岩盤規制改革であった。忠邦の実行力はもっと評価されてよい。
幕府滅亡の淵源を天保の改革に求める向きもあるが、それは水野忠邦に気の毒だ。本当に幕府を滅亡させたのは国学の思想ではなかったか。国学はナショナリズムを促し国民国家をつくる原動力となった。国学に理解のある水野忠邦は、意外に近代的な発想の持ち主だったのかもしれない。
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