大学の政治学特講でD.ヒュームの政治思想について習ったことがある。何といわれる先生だったか、どんなことを話されたのか、ほとんど覚えていない。ただ、要点だけは押さえているつもりだ。
要するにヒュームは、政治が個人の資質に左右されないように、制度設計をきちんとすることが大切だと考えたのである。国の仕組みが整っていること、これが近代国家の要件である。
つくば市小田の国指定史跡・小田城跡に「小田城墟之碑」がある。昨年夏にここを訪れた時には、歴史公園とするべく整備中であった。
小田城は鎌倉時代初期に活躍した八田知家が築城した。その子孫は小田氏を名乗り、戦国時代末に佐竹氏らに城を追われるまで、この地に勢力を張った。
南北朝期の当主は小田治久(おだはるひさ)である。特筆すべき事績は、南朝の重鎮、北畠親房を小田城に迎えたことである。
親房はこの地で有名な『神皇正統記』を著した。それから数百年の後、明治の御代になって南朝が再評価されてからは、この書は聖典のような位置付けとなった。
写真の小田城墟之碑には、びっしりと漢字が刻まれている。漢文の素養なくしては意味が取れない。しかし、北畠親房の名は確認できる。当然、『神皇正統記』執筆の地、として顕彰しているものと思った。
ところが読み進むと、そうではないことが分かる。読んだといっても、それこそ素養がないので、字面を追って勝手に解釈しただけだ。おおよそ、次のようなことが書いてある(ように思う)。
明治4年に廃藩置県により国の仕組みが整い、同6年に私は新治県(今の茨城県)の裁判所長となった。ある休みの日に筑波郡小田村の城跡を訪れた。そこは北畠親房公が南朝の正統を訴え書を著した場所である。親房公はその当時、義を唱える者が楠木氏や新田氏らに限られているのを憂い嘆いていた。この書物を後世に残したことは大きな意義があるが、そのゆかりの地は荒れてしまっている。私はここで親房公の霊を弔ったのである。同8年春に私は任期を終え帰京した。その秋にここ常陸の大塚省吾、下総の櫻井理一、大須賀庸助が同志を募って碑を建てようとして、私に撰文を依頼してきた。よいことだ。省吾らの企画はぜひとも実現させたい。そこで略史を書き記すこととする。
勢力拡大をめざす後醍醐天皇の命により、結城宗広や北畠親房らは義良親王を奉じて奥州に向かった。しかし海上で嵐に遭遇し、一行は離ればなれになってしまった。親房公は常陸の東條浦に漂着し、阿波崎城や神宮寺城に拠った。そして賊徒烟田時幹(かまたときもと)のために城を追われてからは、小田治久の小田城に拠った。伊達行朝(だてゆきとも)の伊佐城や中御門実寛(なかみかどさねひろ)の駒城をはじめ東北の官軍を結集して大いに振るった。賊将高師冬(こうのもろふゆ)が攻め寄せたが、駒城は陥落しなかった。後に再び師冬が攻め寄せてきた。親房公は奮戦するも敗戦を重ね、小田治久が賊軍に通じたために関城に移った。賊軍は関城を攻めたが、城を守る関宗祐(せきむねすけ)は屈しなかった。大宝城を守る下妻政泰(しもづままさやす)や真壁城の法超のほか、伊佐、中郡、西明寺の諸城も協力したので、官軍は再び振るい賊軍を手こずらせた。しかし、賊軍は長く城を囲んだので、どの城も食糧が少なくなり持ちこたえることができなくなった。頼りにすべきは結城親朝(ゆうきちかとも)のみである。親房公は小田城から何度も書状を送ったが、親朝は父宗広の教えに背いて援軍を送らなかった。親房公はやっとのことで吉野へ帰り、宗祐や政泰らは戦死した。諸城はことごとく陥落し、関東で再び官軍が活躍することはなかった。実に興国四年(1343)11月のことである。
親房公は常陸におよそ6年間滞在、小田城には4年いた。まさに単身で賊と戦い朝廷を守った。戦いに明け暮れ寝食にいとまがなかった。そして、はるか離れた吉野朝廷が武士への任官で混乱しているのを聞いて、朝廷の儀式や制度の起こりを明らかにするため、戦いの合間に『職原抄(しょくげんしょう)』を著した。中興の大業はならず、当時この著書が用いられることはなかった。しかし後世、儀式や制度を教える者はみな、この書物を頼りにした。今日、維新の大業により国の仕組みが整い繁栄を迎えているのは、実に親房公の功績である。これに比べると楠木氏や新田氏らの大義はむなしく、恩賞の不服を申し立てた武士の利益を考えていたといえるだろうか。大塚省吾らが今日、親房公を顕彰するのは、まことに時宜を得たものである。
3段落目には北畠親房が小田城で行ったことの意義が記されている。ここで評価されているのは、『神皇正統記』ではなく『職原抄』である。『職原抄』は我が国古来の官位の沿革や補任、昇進について記したもので、江戸時代には『神皇正統記』よりも出版回数が多いという。それだけ必要とされていたのだろう。
3段落目の原文は次の通りだ。
公之在本州凡六年而在本城者四年単身当強賊朝守暮戦寝食且不遑而遥憂行宮草創朝典不僃執筆矢石間著職原抄獻之而中興業不終終無用於當時然后世講王典者獨頼此篇存則今日中興百官整然弄見王業之盛者公實與有功焉而比之楠新田諸公空唱大義終于抑屈者其幸何如也
撰文は「六等判事従六位三島毅」である。三島毅の号は中洲(ちゅうしゅう)。明治を代表する漢学者であり、二松学舎大学の創立者である。備中の生まれで、明治6年に新治裁判所長となり、明治8年に大審院判事となった。明治10年に官を辞し、以後は教育畑を歩んだ。大正天皇の皇太子時代に侍講を務めたことがある。
改めて碑文を振り返ろう。小田城に滞在した南朝の重鎮、北畠親房を顕彰している。親房の著した『神皇正統記』は南朝を正統と見なした明治から戦前期にかけて、大いにもてはやされた。三島も親房の活躍を丁寧に記している。
しかし、三島が着目しているのは『神皇正統記』ではない。同じ小田城滞在時に著した『職原抄』である。我が国古来の有職故実について解説した、この書にこそ意義があるとする。楠木正成や新田義貞の武功は、『職原抄』に及ばないというのである。
小田城墟之碑の撰文をした当時、三島毅は法官であった。近代的な裁判制度が確立したことに、大いに意義を感じていたはずだ。維新は武力によって成し遂げられたのかもしれないが、近代的な制度が整えられたことを評価しているのだ。
だから、南朝の忠臣よりも国家の制度を記した『職原抄』に着目しているのである。ファナティックな南朝信奉者なら、『神皇正統記』が著された小田城址に立てば、感涙にむせぶことだろう。
しかし、同じ明治を生きた三島毅は『職原抄』の近代的な意義を冷静に叙述した。国指定史跡・小田城跡は中世の史跡だが、そこに建つ「小田城墟之碑」は近代の幕開けを告げる明治期の貴重な遺産であった。
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