夏は滝だ。滝の爽快さは命のエナジーである。滝の前に立てるなら、夏が早く来ればいいと思う。しかし、実際に夏が来てみると、暑いし蚊に刺されるしと文句ばかり言ってるだろう。快適な春の今に、夏の風景を楽しむのも一興かもしれない。
岡山県勝田郡奈義町馬桑(まぐわ)に「屋敷の滝」がある。ここは中国山地、馬桑川の源流域で、水は梶並川、吉野川を経て吉井川へと流れ、瀬戸内海に向かう。
車でアクセスがしやすく、遊歩道もある。涼を求めて立ち寄るのにちょうどいい。奈義町が制作した説明板があるので読んでみよう。
奈義八景 屋敷の滝
戦国の武将延原弾正の屋敷跡があったといい又、日本原開拓の先駆者安達清風の屋敷跡ともいうところから屋敷の滝といわれている。規模高さ40m谷幅30m
昭和62年3月 奈義町
昭和57年に選定された奈義八景は「霊峰那岐の四季、湖畔美の西原ダム、菩提寺と大イチョウ、那岐池より見る日本原駐屯地、滝山渓谷と原生林、蛇淵の滝と大別当山からの遠望、ループ橋と屋敷の滝、果樹園」ということだ。
このうち、本ブログ「紀行歴史遊学」で紹介しているのは「蛇淵の滝」と「大イチョウ」である。蛇淵の滝には伝説があった。屋敷の滝にも言い伝えがあるが、人物が2名示されるのみで詳細は不明である。しかも二人は生きた時代がまったく異なる。
延原弾正景光は、備前の戦国武将である浦上宗景の老臣で、後に宇喜多直家に属した。屋敷の滝のある美作との関連では、三星城(美作市明見)の後藤勝基を降したことと、高鉢城(美作市上山)を居城としたことが挙げられる。しかし、これら二つの城と屋敷の滝とは、けっこう離れている。
安達清風(あだちせいふう)は、天保6年に鳥取藩士の家に生まれる。幕末は国事に奔走し、維新後は北海道、次いで岡山県に出仕した。明治11年に勝北郡長となる。勝北(しょうぼく)郡は現在の奈義町域を含んでいた。
現在、日本原といえば陸上自衛隊の駐屯地として有名である。第13特科隊という強そうな部隊がいる。この地は火山灰土壌で農地に適していなかったため、明治期に陸軍の演習地となっていた。
「日本原」という日本海にも匹敵するようなビッグな名称は、江戸時代までさかのぼる。享保・元文年間(1716~1741年)、全国の社寺などを巡礼して回った福田五兵衛が、この地に小さな茶屋を設け、見聞きして来た日本各地の面白い話を聞かせたので、五兵衛は日本五兵衛と呼ばれるようになり、この地は日本野(にほんの)と呼ばれるようになったという。
この日本原を開墾しようとしたのが安達清風であった。鳥取、浜田、岡山の旧藩士の困窮を救う士族授産事業として実施した。清風の屋敷跡は奈義町上町川(かみまちがわ)にあって町指定の史跡である。
したがって、屋敷の滝も直接には清風に関係なさそうに思える。ただし、馬桑には清風によって牧場が設けられたというから、ゆかりがないわけではない。
屋敷の滝の由来を調べるうちに話が広がっていった。いくら滝が爽やかでも、屋敷を置こうとは思わないほど山深い地である。滝から国道53号を少し下ると道がクルリと一回転する。そのまま下ると日本原へ着く。屋敷の滝と日本原を結んでいるのは、安達清風が目を回しそうなループ橋であった。
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