大晦日になりました。今年も「紀行歴史遊学」をお読みくださり、ありがとうございました。来年のみなさまの飛躍を祈って、空を飛ぶ話をお送りいたします。
ドラえもんのタケコプターは、空を自由に飛びたいという人類の夢を象徴している。しかし、科学的には、プロペラが小さくて揚力が不足するとか、二重反転ローターでないと安定しないとか、様々な問題点があるようだ。
世界で初めて空を飛んだのは、9世紀のアッバース・イブン・フィルナスという人だという。後ウマイヤ朝の学者で、スペインのコルドバで飛行実験を敢行した。
岡山市北区京橋町に「世界で始めて空を飛んだ 表具師幸吉之碑」がある。向こうに見えるのが京橋である。
おっと、世界初飛行は、岡山の人だったという。先進的との評価が高いイスラム科学の向こうを張る堂々とした主張だ。表具師幸吉はいったい、いつ、どのようにして飛んだというのか。碑文を読んでみよう。
備前岡山の表具師幸吉は鳥のように自由に空を飛べたらと考え鳩の体重と翼の大きさの割合を人間にあてはめて大きな羽翼を作りこれをからだにくゝりつけて京橋の上から旭川の河原に飛行することに成功しました。これが人間が空を飛んだ最初の記録とされています。天明五年(一七八五年)幸吉が二十九歳の時で米国のライト兄弟より一一〇年以上も前のことです。わたくし達は岡山に表具師幸吉の様な先覚者のいたことを誇りに思っています。
青少年よ 夢をもて
昭和五十六年十二月十三日 岡山旭ライオンズクラブ
なるほど、ライト兄弟より早く飛んでいたということか。では、イブン・フィルナスの記録は?、モンゴルフィエ兄弟の熱気球は?などと、様々な疑問が湧いてくる。
だが、そんな細かいことはすべて不問としよう。要するに、表具師幸吉は自らの思いと努力で「空を飛んだ」のである。夢を翼にのせて大空に羽ばたいたのである。
美しいではないか。青少年諸君、夢を持ちなさい。そして、大きく羽ばたきなさい。君の目には、普段とは違った風景が映ることでしょう。さあ、新しい世界の始まりです。表具師幸吉は教育者ではないが、夢を抱き、一歩踏み出すことの大切さを自らの行動で示したのだ。
だが、当時の人々の受けとめ方は少々異なっている。文化文政の頃に活躍した福山藩の儒者・菅茶山(かんちゃざん)の随筆『筆のすさび』には、次のように記録されている。
機巧
備前岡山表具師幸吉といふもの、一鳩をとらへて、其の身の軽重羽翼の長短を計り、我が身のおもさをかけくらべて、自ら羽翼を製し、機を設けて胸前にて繰り搏(う)ちて飛行す。地より直に颺(あが)ることあたはず。屋上よりはうちていづ。ある夜郊外をかけり廻りて、一所野宴するを下し視て、もし知れる人にやと近よりて見んとするに、地に近づけば風力よわくなりて、思はず落ちたりければ、その男女おどろきさけびて遁(のが)れはしりけるあとに、酒肴さはに残りたるを、幸吉あくまで飲みくひして、また飛びさらんとするに、地よりはたち颺(あが)りがたきゆゑ、羽翼ををさめて歩して帰りける。後に此の事あらはれ、市尹(しいん)の庁に呼び出され、人のせぬことをするは、なぐさみといへども一罪なりとて、両翼をとりあげ、その住める巷(ちまた)を追放せられて、他の巷にうつしかへられける。一時の笑柄(せうへい)のみなりしかど、珍らしき事なればしるす。寛政の前のことなり。
お笑いぐさである。空を飛んだはいいが、宴会で楽しんでいる人々の中に落ちた。みんなびっくりて逃げ出し、あとには酒や料理が残された。幸吉はそれを飲み食いして、再び飛び立とうとしたができなかったという。
そりゃそうだ。そこがライト兄弟とは異なるところだ。高い位置から降下するのは簡単だが、地面から上昇するには莫大なエネルギー、特に化学エネルギーとか熱エネルギーが必要となる。幸吉が手に入れることができたのは、橋の上という位置エネルギーだけであった。
気の毒なことに、飛行は非行ということで、幸吉は岡山の地から追放されてしまう。秩序を乱したということで、今でいえば軽犯罪法第1条13号に該当するだろうか。それとも、宴会の料理を勝手にごちそうになったことで、窃盗罪に問われたのか。その後の幸吉を追っかけて、静岡に飛んだ。
静岡市葵区大工町の福泉寺に「備考齋の墓」がある。これが表具師幸吉の墓である。
岡山を追放された幸吉は、新天地を求めて駿府にやってきた。ここでの暮らしについては、飯塚伝太郎『静岡市の史話と伝説』(松尾書店)を読んでみよう。「孝」の表記は原文のままである。
備孝斎の墓
備孝斎(びこうさい)は、天明四年、岡山に生まれ、通称は幸吉、備前屋と号した。表具師を業とし、寛政の頃、飛行機を考案して、自ら飛行したが、役人に怪しまれて追放となって、駿府に移住して歯医者などした。嘉永四年六十八才で没、静岡で老人などは歯医者を「ビンコーサイ」といった。竹や樫の木を彫刻して入れ歯を造ったりした。
さすが手先の器用な幸吉は、入れ歯を造って歯医者になったという。しかも、名医としての記憶が「ビンコーサイ」として語り伝えられている。実に大きな足跡を残した人物である。
ただし、岡山の顕彰碑の碑文と矛盾する内容が、静岡の書物に記されていることが気になる。岡山では幸吉が飛行したのを天明5年とするが、静岡では幸吉が生まれたのが天明4年だとする。これでは、1歳の子が空を飛んだことになる。
改めて墓碑を調査しよう。側面に命日と出自が、次のように刻まれている。
嘉永四辛亥三月三月廿五日
備前児島郡八浜
桜屋瀬兵衛倅幸吉
八浜は、今の岡山県玉野市八浜町八浜である。出身地では、どのように伝えられているのだろうか。『玉野市史』で調べてみよう。
世界で一番早く空を飛んだ人、それが表具師幸吉であったことは戦時中の小学校の教科書にも出ていた。その幸吉は宝暦七年(一七五七)八浜、長町の桜屋という旅人宿に生まれた。
この後、伝記が詳しく記されている。岡山の城下町で表具を修業していたが、天明五年の事件で岡山を所払いとなり八浜に帰ってきた。しばらく海運の仕事をしていたが、備前の物産を売りさばこうと、駿府に移住して店を構えた。器用な幸吉は時計修理師や入れ歯師として評判となり、兄の子に技術を教え二代目幸吉として後継ぎとした。空への夢を捨てきれない幸吉は安倍川で再び飛行し、再び所払いとなった。そして…
こうなっては駿府におれない、幸に家の方は二代目幸吉が父以上にやっている。彼にすれば三十年の空への希望がかなったのだから思い残すこともなかったのだろう。そこから西へ遠州見付の宿の大和田友蔵親分が世話を見てやるというので、見付の宿に飯屋を開き、親分の世話で年老いて妻帯、下女までおいて立派な店を経営していたようであるが、弘化四年(一八四七)八月二十一日九十一歳の天寿を全うしてここの大見寺に葬られている。
ここで新情報がまた出てきた。弘化四年に亡くなり見付の大見寺に葬られているという。大見寺は磐田市見付にあり、「浮田幸吉の墓」が確かに存在する。では、静岡市の福泉寺の「備考齋の墓」は何なのか。一説によると二代目幸吉の墓だというが、詳細は不明である。
生まれは宝暦七年(1757)か天明四年(1784)か。没したのは弘化四年(1847)か嘉永四年(1851)か。享年は68か91か。何がなんやらさっぱり分からないが、天明五年(1785)に日本初の飛行という偉業を成し遂げたことは、おそらく正しい。
生地である八浜は、かつて外海に開けた港町だった。今は児島湾が締切堤防で分断され外へは出れないが、海上交通の要地としての歴史を誇りとし、幸吉の顕彰も行われている。
玉野市八浜町八浜の元川に「櫻屋幸吉橋」が架かっている。
幸吉が飛んでいる。京橋で飛ぶ前に、八浜の実家でもテスト飛行をしているそうだ。八浜、岡山、そして駿府と、空を飛びたいとの夢をどこまでも追いかけた幸吉。
鳩の体重と翼の大きさから、人に必要な飛行翼の大きさを割り出したという。ハンググライダーで有名な19世紀末の先駆者リリエンタールもコウノトリの飛翔を研究した。
幸吉は生まれる時代が100年ほど早すぎたようだが、航空科学の萌芽は、確かに日本にあったと言うことができよう。