今年5月に生まれたシャーロット王女は、イギリス国民に大人気だ。正式にはシャーロット・エリザベス・ダイアナというお名前である。ダイアナはあのダイアナ妃、王女のおばあさんの名前にちなみ、エリザベスは女王陛下、ひいおばあさんの名前に由来する。
エリザベス2世女王-チャールズ皇太子-ウィリアム王子-シャーロット王女という血筋である。優しい父母に見守られて、すくすくと成長している。
今日は、イギリス王室には及びもないが、我が国を代表する天下人のファミリー・ヒストリーである。
静岡市葵区鷹匠二丁目の華陽院(けよういん)に「源応尼(げんのうに)の墓」と「市姫の墓」が並んでいる。源応尼の院号を華陽院といい、寺名の由来となっている。
源応尼と市姫は曾祖母と曾孫の関係で、血脈を示すと、源応尼-於大の方-家康-市姫という流れとなる。つまり、徳川家康を中心とした女系の人々である。
まず、源応尼のプロフィールから確認しよう。近江六角氏に仕えた青木一宗の娘、於富の方と伝わるがよく分からない。尾三地域の有力武将、水野忠政に嫁ぎ、忠守、於大の方、忠重をもうけた。忠守の流れは天保の改革の水野忠邦へとつながり、忠重の流れも譜代大名を輩出した。
そして於大の方は、三河岡崎の松平広忠に嫁ぎ、竹千代(後の徳川家康)を産んだ。天文十一年(1543)のことである。ところが、竹千代3歳の同十三年(1544)に、離縁によって実家に戻されてしまう。今川氏に与する松平氏としては、於大の実家水野氏が織田方についたことが不都合となったのである。
そして、松平氏と今川氏との同盟関係を強化するため、竹千代が人質として駿府にやってきたのが天文十八年(1549)、8歳のときだ。まだ母恋しい年頃である。メンタル面のケアができる肉親が必要だった。そこで招かれたのが祖母の源応尼である。華陽院にある静岡市の説明板を読んでみよう。
華陽院は、徳川家康の祖母・源応尼の菩提寺で、はじめ知源院と呼ばれていた。源応尼は、天文二十年(一五五一)八月、当時今川家の人質となっていた竹千代(後の家康)の養育者として岡崎から招かれ、知源院の近くに寓居を構えた。源応尼の親身の愛情は、肉親と遠く離れて淋しく暮らしていた幼い竹千代の心を大いに和ませた。竹千代は、源応尼の寓居と田んぼをはさんで隣り合ったこの寺へよく遊びに来たが、竹千代を慈愛の心を持って迎え、時には文筆の師となって訓育したのが、住職・知短(ちたん)であった。
源応尼は、永禄三年(一五六〇)五月六日、成人した徳川家康が、今川義元上洛の先陣として浜松にあるとき、駿府で逝去した。後年、大御所として駿府に引退した家康は、祖母のために盛大な法要を営んだ。「華陽院」の名は、その法名から改められたものである。
人質時代には軍師・太原雪斎(たいげんせっさい)に学んだと伝えられているが、実際には説明板の言うように知短上人に学び、源応尼の愛情に包まれて育ったことだろう。
源応尼は永禄三年(1560)に亡くなる。法名は華陽院殿玉桂慈仙大禅定尼という。同じ年に桶狭間の戦いで今川義元が討死し、家康自身の戦国の世が始まるのである。家康は19歳になっていた。
その後40年を経て、家康は天下人となる。征夷大将軍として江戸に幕府を開くが、間もなく嫡男秀忠に将軍職を譲って、慶長十二年(1607)に駿府に隠居する。
家康には側室が何人もいたが、お梶の方はその一人だ。同じ十二年に市姫を産む。家康66歳、生涯最後の子であった。おそらく可愛くて可愛くてたまらなかったのだろう。家康はさっそく伊達政宗の嫡男(後の忠宗)と婚約させている。
市姫がすくすくと育っていた同十四年(1609)、家康は祖母源応尼の五十回忌の法要を知源院で執り行った。竹千代時代の思い出が走馬燈のように駆け巡ったことだろう。そして今、大御所として幼子の成長を見守ることのできる幸せをかみしめたに違いない。
ところが突然の訃報が家康を襲う。市姫は同十五年(1610)が、わずか4歳で夭折したのである。法名は一照院殿円圓芳功心大信女という。その墓碑は家康の悲しみと同じくらい大きい。
家康の人生は、重き荷を負うて遠き道を行くがごとしだったという。長く荒れた道を一歩ずつ着実に歩んできた。苦難に立ち向かう勇気は、竹千代の駿府時代に育まれたのであろう。
駿府時代の大御所は、豊臣氏を滅ぼし政情の不安定要因を解消した。後を歩く者の便宜を図り、荒れた道をならしたといえよう。家康の長い人生は駿府で確立し、長く続いた江戸時代もまた駿府で確立したのである。
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