新幹線ホームの自販機に「静岡茶」というペットボトルを売っている。静岡と言えばお茶というイメージどおり、全国シェアはトップだ。産地として有名なのが牧之原台地で、一面に広がる茶畑の縞模様は、それはそれは壮観である。
牧之原が茶畑になったのは、ちゃきちゃきの江戸っ子、勝海舟による士族授産事業のおかげだという。ここ静岡に、海舟の家族の墓碑があるというので訪ねてみた。
静岡市葵区沓谷(くつのや)2丁目の蓮永寺に「勝信子の墓」がある。勝信子さんは、勝海舟の御母堂である。
日蓮宗の名刹である蓮永寺は、勝海舟が「南無妙法蓮華経」と揮毫した掛軸を所蔵している。墨田区本所4丁目の能勢妙見山別院は日蓮宗の霊場だが、ここは海舟が子供時代に大怪我をした際、父小吉が水垢離をして快癒を祈ったお寺である。境内には海舟の胸像がある。勝家と日蓮宗は関係が深いようだ。
御母堂のお墓のうしろに説明板があるので読んでみよう。
栄正院殿妙寿日徳大姉は、勝海舟の実母であり、勝甚三郎元良の娘で小吉惟寅の妻である。
風雅を嗜み、写字を能くし、教養を積み内助の功あり。明治三年三月二十五日、行年六十七歳静岡に於て病歿せり。
慈海院殿妙香日順大姉は、海舟の妹じゅんにして佐久間象山の妻なり。明治四十一年一月三日寂行年七十三歳、慈母のかたはら此処に葬る。
維時昭和四十九年五月十八日静岡東ロータリクラブ厚意によ里建之。
墓碑右側の「英徳院殿夢酔日正居士」は、海舟の父小吉の戒名である。妻に先立つ嘉永三年(1850)に亡くなっていた。左側は母の信子(のぶ)の戒名で、さらにその左の枠内が妹の順子(じゅん)の戒名である。
この墓は母が亡くなった後の明治4年2月に建てられ、妹の戒名はその後に追刻されたものである。戒名の下には「明治戊申一月三日」の命日も刻まれている。
勝家は幕臣であり、海舟は江戸で生まれ育った。今の墨田区両国4丁目の両国公園内に「勝海舟生誕之地」という碑が建てられている。海舟の母も当然ながら江戸の人だが、なぜ静岡で亡くなっているのか。
海舟は、慶応四年(1868)3月13日と14日に西郷隆盛と会見し、江戸城無血開城を約した。江戸での戦乱は回避されたものの、旧幕臣のうち抗戦派の抵抗はなおも続いた。彰義隊が上野で、榎本艦隊が箱館で戦った。
一方、前将軍徳川慶喜の水戸退去に続いて、家督を継いだ家達(いえさと)は5月24日、駿府(後の静岡)70万石に移封となった。これに伴い、慶喜も7月23日に駿府の宝台院に入って謹慎を続けた。
海舟が駿府に到着したのは10月12日である。9月に改元があり、名実ともに新時代の幕が開いていた。海舟は今の静岡市葵区鷹匠のあたりに住んだらしい。
御母堂も同じ頃に来静されたのだろう。海舟は静岡市葵区門屋の宝寿院のあたりに、母の隠居所を建てた。そこには「勝海舟屋敷跡」という記念碑があり、建物は宝寿院に移築されている。ところが、お母さまは隠居所へ移ることなく亡くなられてしまう。明治3年3月25日のことであった。くだんのお墓が静岡にあるのは、こうした事情からである。
海舟は山岡鉄舟らとともに静岡藩の重役となったが、新政府からの期待も強く、明治5年には東京に戻った。以後亡くなるまでの住居は、今の港区赤坂六丁目で「勝安房邸跡」として東京都旧跡に指定されている。
さて再び墓碑に話を戻そう。この墓に海舟の妹の戒名が刻まれているのは、なぜだろうか。海舟が西洋砲術を学ぶため偉才・佐久間象山に入門したのは、嘉永三年(1850)のことである。その塾の中で、どのように話が展開したのかは分からぬが、嘉永五年(1852)、象山は海舟の妹じゅんを正妻として迎える。
ところが、不幸なことに元治元年(1864)に夫・象山は暗殺されてしまう。その後、じゅんは山岡鉄舟門下の剣客・村上俊五郎と再婚したが長続きしなかった。後半生は兄・海舟とともに暮らしたらしい。没後に母の墓に合葬されたのは、遺族による思いやりなのだろう。
海舟と親交のあった旧幕臣に戸川安宅(やすいえ)がいる。彼は三千石の大身旗本で備中早島を知行した最後の領主であった。明治時代には文学者として活躍した。雅号を残花という。戸川残花『海舟先生』(成功雑誌社、明43)に、じゅんについて次のようなエピソードが記載されている。
先生の令妹順子の話に、松陰が浦賀へ忍び行かうとした時、自分で大きな搏飯(むすび)をこしらへてやつたといふ。明治に至り、松陰が神に祭られた時、順子は其の祭典の席に列し、衆と共に参拝して、
寅さん、お前は神様となつて嬉しからうが、死んではつまらぬ。私はまだ生きてるヨ。
と云つたと、著者に語つて大笑せられた。
さすがは佐久間象山の妻である。この偉才にしてこの妻あり。この妹にしてあの海舟あり。偉人の家族は、やはり大物であった。
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