こんな誤解がある。優柔不断な幕府は、軍事力を背景としたペリーの要求に屈し、日米和親条約を結んだ。
実際のところ、幕府代表団はペリーに対して粘り強く交渉している。相手の要求を理解し、こちらの立場を主張し、もちろん礼儀をわきまえ、対等に渡り合ったのである。縮み上がって、一方的に要求をのんだのではない。
5名の幕府代表団の一人に鵜殿民部少輔(うどのみんぶしょうゆう)という旗本がいる。目付(めつけ)という役職だが、老中の特命によりペリーとの交渉を任されたくらいだから、かなり優秀な人材だったのだろう。代表団の中での序列は第4位で、日米和親条約の前文にも名前が記載されている。
静岡市葵区追手町(おうてまち)の静岡市役所前に「駿府町奉行所址」の碑がある。
今も昔も地域行政の拠点なのだ。今の静岡市長は、昔なら駿府町奉行に相当するだろう。どんな人がどのような仕事をしていたのだろうか。説明板を読んでみよう。
駿府町奉行は、老中直属の組織で、町政全般の掌握から訴えなどの裁き、城下の警備や府中宿の管理などまで、駿府の町民生活に直接関わる広範な業務を担っていました。寛永9年(一六三二)に大手組町奉行として駿府城大手御門前のこの地に設置され、明治元年(一八六八)までに旗本を主に六十三人が町奉行に任命されました。町奉行の配下には、与力八人と同心六十人がいてその職務にあたっていました。
町奉行となった旗本が63人いたが、その最後から3人目、安政5年(1858)5月20日から翌年9月10日まで町奉行の任にあったのが、鵜殿民部少輔である。
注目したいのは、その就任の時期だ。安政5年はまさに激動の一年であった。井伊直弼の大老就任、将軍継嗣問題の決着、日米修好通商条約調印、安政の大獄開始。その後の歴史を大きく動かす出来事が次々とあった。
アメリカとの交渉経験のある鵜殿は、安政4年(1857)のハリス江戸出府に際しても準備委員を命じられている。その鵜殿を駿府町奉行という地方官に任じたのが井伊直弼であった。これは何を意図した人事なのだろうか。
将軍継嗣問題にあって鵜殿は一橋派に属していた。そのため南紀派の大老井伊直弼に疎まれ、地方に飛ばされたのである。左遷人事であった。また、その翌年に鵜殿を隠居させたのも井伊大老であった。
安政の大獄は鵜殿の人生を翻弄した。命まで奪われた者も多数にのぼった。井伊としては、強力なリーダーシップを発揮したつもりだったのだろうが、その代償は結果的に自らの命に返ってくるのである。
鵜殿は町奉行を退いた後、浪士組の取締役として新撰組前史に名を残したが、その能力が活かされることはなかった。明治になって静岡に住み、この地で没したという。
町奉行所の跡地には「静岡市役所本館」が建てられている。もう少し引いて撮ればドーム屋根の瀟洒な望楼が写っただろう。だが、これだけでもどこかの国のロイヤルパレスに見える。
設計は中村與資平(なかむらよしへい)で、あの東京駅で有名な辰野金吾に師事した建築家である。昭和9年の建築で国登録有形文化財となっている。
時代は移り変わって、鵜殿民部少輔がこの地で民政をつかさどったことなど、知る人もいない。だが、美しすぎる市役所を前に鵜殿の業績について考えてみるのも一興だろう。
幕末史は幕府の衰退ばかりが語られるが、少なくとも、長く鎖国を続けた日本にも、鵜殿のような有能な外務官僚がいたことだけは強調しておきたい。
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