「上司にしたい歴史上の人物」のランキング(雑誌「歴史街道」編集部調べ、平成25年)で第1位は、織田信長である。今年3月16日に「歴史秘話ヒストリア」が放映した「上司にしたくない人」のワーストは、織田信長だった。いったい何なんだ。でも、分かるような気がする。
こうしたランキングにまったく出てこない歴史上の人物に、楠木正成がいる。戦前・戦中には誰もがその名を知るヒーローで、忠義ひとすじの武士の中の武士、というイメージで語られた。思いは一途だが、決して堅物ではない。今日は楠公のヒューマンな側面をレポートする。
大阪府南河内郡千早赤阪村森屋に「寄手塚(よせてづか)・身方塚(みかたづか)」がある。
上の写真が「寄手塚」で、大阪府文化財保護条例により「森屋惣墓寄手塚石造五輪塔」として有形文化財に指定されている。総高182.0cmである。
下の写真が「身方塚」で、大阪府古文化紀念物等保存顕彰規則により「森屋惣墓身方塚石造五輪塔」として重要美術品に指定されている。総高137.3cmである。
この美しい二つの五輪塔の高さの違いに注目したい。『千早赤佐村の文化遺産』という冊子には、次のように記述されている。
これらの塔は、南北朝動乱期、千早赤阪を舞台に起きた戦により、命を落とした兵の霊を弔うために、楠木正成公(大楠公、楠公さん)によって造立された供養塔であり、その際、敵(幕府軍)と呼ばず寄手とし、その五輪塔を味方(楠木軍)の塔よりも大きく建てたという、何とも奥ゆかしい、楠公さんの人情味が感じられる伝承から、その名で呼ばれるようになったようだ。
亡くなった者に敵も味方もない。区別なく供養するのが人の道。以前に上杉禅秀の乱における「敵味方供養塔」をレポートしたことがある。その塔は、博愛思想をあらわす碑で最も古い例だという。
楠公さんが造立した「寄手塚・身方塚」はさらに古い。年代は「寄手塚」が鎌倉時代後期、「身方塚」が南北朝時代前半だそうだ。ん? なぜ時期が異なるのか。同じ時期に建てたはずでは…。
隣の河南町に「寛弘寺神山墓地石造五輪塔」があり、正和四年(1315)に造立されたが、寄手塚はこれとほぼ同じ頃のものと考えられている。ということは、千早赤坂で戦いのあった元弘の頃(1331~33)以前である。
どうやら、「寄手塚・身方塚」をめぐるヒューマンな伝承は、後世の創作らしい。な~んだ。それでも、このような伝承が生じるほどに、楠公さんは人気があるということだ。
心優しい楠木正成公、ぜひ「上司にしたい歴史上の人物」にランクインしてもらいたいものだ。いや、忠誠心が強いので「部下にしたい歴史上の人物」に選ばれるかもしれない。
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