「カラスの勝手でしょ」は志村けんのギャグで、本当の歌詞は「からすはやまに」である。意外に答えられないのは「この歌のタイトルは?」。諸賢には改めて教示するまでもなかろうが、「七つの子」である。
「七つの子」は「日本の歌百選」の一つで、日本を代表する童謡と呼んでも過言ではない。「日本の歌百選」は平成18年に文化庁と日本PTA全国協議会が選定したものだ。作詞は野口雨情(のぐちうじょう)、本日の主人公である。
大田市温泉津町温泉津(ゆのつ)に「野口雨情詩碑」がある。
ずいぶん前のことだが、私は野口雨情の生家を訪れたことがある。北茨城市磯原町磯原にある立派な屋敷で、雨情の原稿や遺品が展示されていた。夏の暑い日、近くの磯原海水浴場では、穏やかな海でたくさんの人が遊んでいた。大震災では生家も津波に襲われ、床下浸水の被害を受けたが、雨情のお孫さんらのご尽力で復旧しているそうだ。
茨城生まれの雨情が石見温泉津を訪れているのは、どのような事情があるのだろうか。そして、雨情は何を詠ったのだろうか。碑の裏面に次のように記されている。
建立の記
向う笹島日の入る頃は
磯の千鳥もぬれて啼く
海と温泉と人の心を磯の千鳥に託しての温泉津小唄は昭和十八年四月二十九日山口打聴氏の招聘によりこの地を訪れた野口雨情によって作詞されたもので、その詩情がいつまでも後世に唄い継がれることを願って詩碑を建立す。
平成元年四月吉日 温泉津町観光協会
温泉津の港から西を望むと、雨情も眺めたであろう笹島が見える。下の写真の岬の突端である。私は日没を見ることはなかったが、おそらく海も空も一面朱に染まり、泣けるくらい美しいのだろう。
雨情が温泉津の俳人の招きで、ここを夫人とともに訪れたのは、昭和18年4月29日。
温泉津港にゃ錨(いかり)はいらぬ
人の情(なさけ)で船つなぐ
戦局が悪化する頃だったが、詩情と人情がつなぐ文化人の交流のようすがうかがえる。昭和20年の初めに亡くなる雨情にとっては晩年の旅であった。金の星社の創業者・斎藤佐次郎氏は、昭和56年に北茨城市で開かれた文化講演会「雨情さんと私」で次のように話している。野口雨情顕彰誌『雨情』第三号(磯原雨情会)より
ちょうど昭和十八年の頃だったと思います。世の中が戦時一色に塗りつぶされている時でありましたが、私が関西から東京へ帰る列車の中で、バッタリ雨情さんご夫妻に出会ったのです。その時雨情さんは病気のためでしょうか、すっかり身体が衰えておりまして、口をきくのも大儀そうなんです。私はびっくり致しまして、付き添っていた奥さんに「どうしたんですか、どこへ行って来たんですか」と聞きますと、「山陰地方に、いいお灸の先生がいると聞きましたのでそこへ行って来たんです」と言って、それから「揮毫を頼まれて残して置いたのがあるものですから、ついでにそれも片づけて、これから帰るところです」ということでございました。
雨情作詞の「温泉津小唄」は昭和32年、市丸姐さんが唄ってレコードとなった。それからしばらくは、芸者さんによって歌い継がれていたらしい。今は閑静な温泉街で、歌舞音曲が聴こえてくることはない。
私は老舗「ますや」に泊まったが、仲居さんに明るくもてなしていただいたことは、旅の忘れえぬ思い出だ。人情の厚さは昔と変わっていない。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。