むかしむかし浦島は 助けた亀に連れられて
浦島太郎は亀の恩返しのおかげで、竜宮城でいい思いをすることができた。「動物報恩譚」という昔話の一つである。情けは人の為ならず。動物にも人にも親切にしておくことだ。
今日は、亀の報恩譚ゆかりの地をレポートする。
三次市向江田町(むこうえたまち)に「寺町廃寺跡」がある。国指定史跡である。
ここには飛鳥末期から平安初期にかけて、地方寺院としては第一級の寺院があった。朱塗りの柱、飾り金具、白壁、そして瓦屋根。造形美の美しい伽藍だっただろう。東に塔、西に金堂、その背後に講堂がある法起寺(ほっきじ)式という伽藍配置だった。
塔は三重塔だったと推定されている。その跡地に石塔が建てられている。これ以外には何もないが、そのことが世の無常を表すようで、かえって趣がある。
この寺跡の魅力は、古代の仏教説話集『日本霊異記』に登場することだ。寺号は「三谷寺」という。この地はかつて「三谿(三谷)郡」と呼ばれてたが、その中核となる寺院だったのだろう。さっそく、説話を読んでみよう。
亀の命を贖(あか)ひて放生(はうじやう)し、現報を得て亀に助けらえし縁 第七
禅師弘済(ぐさい)は百済の国の人なりき。百済の乱れし時に当りて、備後の三谷郡の大領の先祖、百済を救はむが為に遣はされて、旅(いくさ)に運(めぐ)りき。時に誓願を発(おこ)して言(まう)さく、「若(も)し、平らかに還り卒(をは)らば、諸(もろもろ)の神祇(かみたち)の為に伽藍を造り立てまつらむ」とまうす。遂に災難を免れき。即ち禅師を請(う)けて、相共に還り来り、三谷寺を造る。其の禅師の造り立てまつりし所の伽藍多(さは)なり。諸寺の道俗之を観て共に欽敬(きむきやう)を為す。
禅師、尊像を造らむが為に、京に上る。財を売りて既に金丹等の物を買ひ得たり。還りて難破(なには)の津に到りし時に、海辺の人、大亀を四口売る。禅師、人に勧めて買ひて放たしむ。即ち人の舟を借りて、童子を二人将(ゐ)て、共に乗りて海を度(わた)る。日晩(く)れ夜深(ふ)けぬ。舟人、欲を起し、備前の骨嶋(かばねじま)の辺(あたり)に行き到り、童子等を取り、人を海の中に擲(な)げき。然る後に、禅師に告げて云はく、「速(すみやか)に海に入るべし」といふ。師、教化すと雖も、賊猶(なほ)し許さず。茲(ここ)に於て、願を発(おこ)して海中に入る。水、腰に及ぶ時に、石の脚に当りたるを以て、其の暁に見れば、亀の負へるなりけり。其の備中の海の浦海の辺(あたり)にして、其の亀三たび領(うなづ)きて去る。疑はくは、是れ放てる亀の恩を報ぜるならむかと。
時に賊等六人、其の寺に金丹を売る。檀越(だにをち)先に過(よき)り、量り贖(あか)ひ、禅師、後より出でて見る。賊等慌然(たちまち)に退進を知らず。禅師、憐愍(あはれ)びて刑罰を加へず。仏を造り、塔を厳(かざ)りて、供養已(すで)に了(をは)る。後には海辺に住(とどま)り、来れる人を化す。春秋八十有余にして卒(をは)りぬ。畜生すら猶し恩を忘れずして恩を返報せり。何(いか)に況(いはむ)や、義人(ひと)にして恩を忘れむや。
亀を買い取って放してやった恩返しに、亀に助けられた話
弘済というお坊様は百済の人であった。百済救援戦争に従軍することとなった備後国三谷郡の長官の先祖は、「もし無事に帰れたなら、お寺を建てましょう」と誓った。実際に無事に帰れることとなったので、弘済法師を日本に招き、故郷に「三谷寺」を建てた。法師が建てた寺は多く、僧侶も民衆も篤く敬った。
法師は仏像を造るため、都にのぼり私財を売って金や朱などを買い求めた。その帰途、難波津で大亀が4匹売られていたので、買って放してやった。そして、船をチャーターして童子二人とともに瀬戸内海を進んだ。日が暮れ夜も更けた。すると船乗りが欲を起こして、備前国骨島のあたりまで来た時、童子たちを海に投げ込んだ。法師にも「はよう、海に入らんかい」と言う。法師は人の道を教え諭したが、賊は聞き入れない。こうなったら仕方ない。法師は仏に祈って、海へ飛び込んだ。すると、腰まで水に浸かったが、岩が足に当たって沈まない。明け方になって見ると、それは亀の背中だった。亀は法師を備中の海辺まで運び、三回うなずいて去って行った。おそらく、これは放してやった亀の恩返しであろう。
それからしばらくして、あの賊たち6人が、建築中の三谷寺に、法師から奪った金や朱を売りに来た。そこで、寺の檀家の者を集め、まずは、さりげなく商談を進めておき、次に、おもむろに法師が姿を現した。賊たちはびっくりぽん!固まってしまった。だが法師は、彼らにあわれみをかけ、刑罰を加えなかった。その後、仏を造って塔を建て、落慶法要をおこなった。のちに法師は海辺に移り住み、訪れる人を仏道に導いた。そして80歳余りで亡くなった。動物でさえ恩を忘れず恩返しをするのである。まして人ができないはずはないだろう。
実に分かりやすい教訓である。水戸黄門のような勧善懲悪!痛快TVスカッとジャパンのような心地よさ。
このような物語はどのようにして作られたのだろうか。亀の背に乗るなど、実際の記録であるはずがないが、現実の地名や出来事が挿入され、リアリティのある説話になっている。
百済、京、難波津、そして備後国三谷郡。地方とはいえ、中央そして外国ともつながっていた。この関係づくりに寄与したのは、大亀であり、盗賊であった。
『日本霊異記』の伝える亀の報恩譚は、単なる恩返しにとどまらず、悪者までやっつけてくれる。善良な庶民の味方をしてくれる物語なのだ。
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