「戦争は発明の母」という使えそうにない格言があるが、おそらく事実を言い表している。戦時中の我が国においては、さまざまな代用品が発明された。金属が不足してきたので、陶製のアイロン、釜に湯たんぽが発明され、そして陶製の手榴弾や貨幣まで試作されたという。
金属を大量に必要とする大型船はどうだろうか。本日は鋼材船の代用品、いや代用とはいえ、輸送船として十分に活躍した船の紹介である。
呉市安浦町三津口(みつぐち)二丁目の漁港に、コンクリート船「武智丸(たけちまる)」が停泊している。排水量2,300トン、船長64メートル、船幅10メートル。前に進みそうに見えるが、動かない。
武智丸は2隻あり、写真は第一武智丸で、その向こうに第二武智丸がある。台風のたびに漁船に被害が出ていた安浦漁港を荒波から守るため、昭和22年に防波堤として据え付けられたのである。以来、数十年、船としては面影を残すのみだが、コンクリート堤としては十分その機能を発揮している。
昔話「かちかち山」に、ウサギのつくった「泥船」が登場する。タヌキはだまされてそれに乗り、ひび割れて浸水したため、あやうく溺死することろだった。これをお婆さんを殺したタヌキに当然の報いとするか、ウサギの過剰な仕返しと考えるかで、裁判員は悩むことになる。
話がそれていきそうだが、その泥船である。コンクリートは固まる前にドロドロの状態だ。これを固めて造ったという船は、イメージがどこか泥船と重なる。だが心配することはない。事実、70年以上、輸送船そして防波堤として活躍しているではないか。
武智丸が建造されたのは昭和19年5月。いよいよ金属類が不足し、銅像や釣鐘が回収されていた。旧安浦町が設置した説明板を読んでみよう。
第二次世界大戦で鋼材不足を補うため、舞鶴海軍工廠 林邦雄海軍技術中佐がコンクリート船を設計、研究の結果、本部にて採択され大阪府土木会社武智昭次郎氏により高砂市の塩田跡地の造船所にて建造した。
武智丸は昭和一九年から二〇年にかけて四隻建造、三隻就航瀬戸内海を始め南方にも航海したといわれる。
この船は数々の駆逐艦を建造してきた舞鶴海軍工廠で設計されたのだ。そのまま舞鶴で造らなかったのは、鉄筋コンクリート方式という特殊な造船方法に、従来からの設備が対応できなかったからだ。
耐久性抜群のコンクリート船だったが、その重さゆえに速度が出ず、普及することはなかった。だが、「技術立国」を国の基としている日本においては、技術力の高さを伝える建造物として、産業技術史に記録しておくべきだろう。
そして何より、戦時中の我が国が「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」と、金属の代わりにコンクリートで船まで造ってしまったという、貴重なエピソードとして記憶しておくべきだろう。
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