来年の大河は『西郷(せご)どん』だから、明治維新150年の祝祭ムードは大いに高まるだろう。その西郷どんを靖国神社に祀ろうという動きがある。賊軍として亡くなったが、今さら敵も味方もないだろうというわけだ。そんなことをしなくても、これだけの国民的な人気そのものが、十分な供養になっているように思うが、亀井元大臣や石原元知事は熱心に合祀を主張している。
西郷どんに人間的な魅力を感じるのは、今の人だけではない。西南戦争が勃発し、西郷の官位が剥奪され「逆徒」とされても、なお、西郷を信頼して会いに行こうとした公家がいた。
五條市新町三丁目に「旧五條代官所跡長屋門」がある。今は市立民俗資料館として活用されている。
資料館には天誅組について分かりやすい展示がある。天誅組は文久三年(1863)に五條代官所を襲撃したが、その代官所はここではなく五條市役所の場所にあった。天誅組は討幕の烽火として代官所を焼いたため、新たな代官所が元治元年(1864)10月に建設された。その代官所の正門が本日紹介している長屋門である。
しかし、新築の代官所も長く機能することはなかった。ほどなく明治維新を迎えるのである。その後のようすについて、説明板を読んでみよう。
明治元年(一八六八)五月、代官所は奈良県に引き継がれ、明治三年(一八七〇)二月、五條県発足のおり五條県庁となり、その後、警察大屯所や中学校として利用され、明治十年(一八七七)には五條区裁判所となりました。
長屋門の向こう側には奈良地方裁判所五條支部があり、現在も裁判所として機能している。
慶応四年(明治元年)の明治維新により代官所の支配地域は「奈良県」となり、まもなく「奈良府」、翌年にはまた「奈良県」と改称された。その後、管轄域の再編により明治三年に「五條県」が設置され、翌年には府県統合により「奈良県」となった。
いよいよ本題に入ろう。ここは「五條県」の県庁所在地だったのであり、五條県が存在した二年近くの間に、知事が二人赴任した。初代知事は鷲尾隆聚(わしのおたかつむ)、二代目は四条隆平(しじょうたかとし)である。後に奈良県令となった四条は、本ブログ記事「破壊を免れた日本第2位」で紹介したように、興福寺五重塔を倒そうとしたことで知られる。
初代知事の鷲尾も四条ももとは公家で、鷲尾家は四条家の分流である。鷲尾は幕府から睨まれるほどの尊攘派公家で、王政復古に際しては、土佐の陸援隊に擁され高野山で挙兵し、官軍として五條代官所を接収した。
それからずいぶん後の明治十年(1877)に西南戦争が勃発した時、鷲尾は「オレが西郷と話をつけてくる」と言い出した。新政府内で活躍した鷲尾だから、西郷とも親密な人間関係を築いていたのだろう。3月10日付けで政府に提出した「正四位鷲尾隆聚建言」の一部を読んでみよう。『今体英雄文抄』第2集より
此に於て隆聚(たかつむ)庸愚(ようぐ)不肖(ふしょう)也と雖(いえど)も身命を国事に委(まか)し直ちに該地に赴き島津久光に協議し西郷隆盛に面接し暴徒に党せし源由(げんゆう)を尋問し其論ずべきは之を論じ其匡(ただ)すべきは之を匡し其審決(しんけつ)する所を具状(ぐじょう)し然る後隆聚別に裁下を仰ぐもの有んとす。
このような状況なので、私はおろかだといえども、お国のために命を投げ出す覚悟で、ただちに現地におもむき島津久光と協議し、西郷隆盛に面会して暴徒の味方をした理由を問いただし、議論すべきは議論し、改めさせるべきは改めさせ、審査して決定したことを文書で報告し、裁可を仰ごうと思います。
なんとか西郷を救おうとした鷲尾だったが、現地に行くことはできなかった。行ったところで何ができようかの状況だったが、「話せばわかる」との思いで行動した公家がいたことは、記憶に留めるに値しよう。
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