裏切り者として名高いのは、西洋なら「ブルータス、お前もか」であり、我が国なら関ケ原の小早川秀秋であろう。西軍の秀秋は戦いが始まっても、なかなか動こうとしなかった。これにしびれを切らした家康に促されて寝返り、西軍敗北の原因をつくったのである。かくして今日まで裏切り者の汚名を着せられることとなった。
裏切りは信義則に反することだから、悪人の烙印が押されても仕方あるまい。だが、裏切りは生き残るための手段だと考えると、必ずしも悪いとは言えない。美しく死ぬのとしぶとく生き続けるのと、どちらがいいかという究極の選択である。
岡山市北区番町二丁目の瑞雲寺に「小早川秀秋の墓」がある。墓石の五輪塔は本堂の中にあり、普段は非公開だ。
東軍の勝利に多大な貢献をした秀秋は、西軍の主力であった宇喜多秀家の所領、備前・美作50万石を与えられ、岡山城主となった。慶長五年(1600)のことである。どころが、同七年(1602)には、21歳の若さで亡くなる。子がいなかったため小早川家は改易となった。
義に厚い大谷吉継を突然攻撃して自害に追い込んだことと、若くして死んだことは何の関係もないのだが、祟りだとか狂死だとかロクでもない評判が立つこととなった。死因は何か? 『備前軍記』巻第五「秀秋卿ぜらるゝ事」には、次のようなウワサが紹介されている。
一説には、鷹狩の時、一人の百姓を斬らんとあれば、甚だ愁傷するを、秀秋卿笑ひて、刀を抜いて、所々疵付けて、之を弄ばれしに、其百姓起って陰嚢を蹴上げたれば、秀秋卿即死ありしといふ。
一説には、山伏の訟事のありしを呼出し、理非を断ぜず、両手を切られしに、其山伏怒って、飛懸り、秀秋卿を蹴倒し、踏殺すともいふ。
又一説には、児子姓を手打にせんとして、返討に合はれしともいふ。
又一説には、西大寺の堂の下の河にては、昔より殺生を堅く禁ぜし所なるに、此卿網して鯉・鮒を多く得て、其帰りに広谷の橋の上にて落馬し薨ぜられしともいふ。
ホンマかいな。自民党政権が民主党政権を、明治政府が江戸幕府をなど、現政権が前政権を悪く言うのはありがちなことだ。『備前軍記』を書いたのは岡山藩士だから、藩主池田家がいかに慈悲深いかを示すため、秀秋を誹謗中傷している可能性もある。
実際、どのような人物だったのか。昨年の大河『真田丸』では、浅利陽介が秀秋を演じていたが、実直なそうな人柄がよく出ていた。関ケ原での「裏切り」とて、武将としては正しい決断であった。同じように東軍に寝返った脇坂安元は、子孫が龍野藩主として続いたこともあって悪しざまに言われることはない。
秀秋について、なにか良い評価はないものかと探すと、『岡山市史 』第二(昭和11年)に、短いながらもこのような記述が見つかった。
秀秋は年少気鋭の武将なりしと同時に領内の神仏を崇敬し造営、寄進、制禁、社参等に留意したり、左に備前一宮及西大寺観音に於ける一例を挙げて之を証明せんとす。
吉備津彦神社に社領を寄進したり、西大寺観音院において殺生などを禁じる制札を出している。つまり「殺生を堅く禁ぜし所なるに、此卿網して鯉・鮒を多く得て」という誹謗中傷とは、まったく逆で、新領主としてまず地元の神仏を崇敬し、民心の安定に努めているのである。
これまで秀秋は、あまりにも不当な評価を与えられていたのではないか。子孫がいないので遠慮なく貶められたのではないか。菩提寺の瑞雲寺にある標柱では「秀秋公」と敬称が付けられている。『岡山市史』では「年少気鋭の武将」と評価されている。秀秋公の再評価は、岡山から始まるのかもしれない。
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