女性が主人公の大河ドラマは視聴率がとれないというジンクスがあるそうだ。『直虎』も少々心配ではあるが、我が家の一部の者は欠かさず見ている。後世、大老を輩出する井伊家も、先行き不透明な戦国の世にあって必死で生きる道を模索している。それは現代人とて同じ状況であり、共感しながらドラマの展開を追うことができるのだ。
かなり前に『花の乱』という日野富子を主人公とした大河ドラマがあった。低視聴率だったことが知られているが、もし今年放送だったらブームに乗れたかもしれない。というのも、中公新書『応仁の乱』が現在28万部という異例のベストセラーになっているからだ。
本日は乱の原因をつくった(?)日野富子の晩年にスポットを当てることとしよう。
赤磐市沢原(さわはら)の小川山(おがわさん)常念寺(じょうねんじ)自性院(じしょういん)に「伝足利義政供養塔・伝日野富子墓塔」がある。赤磐市指定文化財(建造物)である。
どちらもお墓のようだが、供養塔と墓塔は意味が異なる。墓塔には遺骸か遺骨が納められているが、供養塔にはそれがない。墓塔は亡くなった場所に建てられることが多いが、供養塔は亡くなった場所とは限らない。
通説では日野富子の墓は、京都市上京区の華開院(けかいいん)にある。備前のこの地にも「墓塔」があるのは、いったいどういうことだろうか。旧熊山町教育委員会が作成した説明板には、次のような記述がある。
文明十五年(一四八三)将軍義尚と対立したため都落ちを決意し、赤松政則の家臣で幕府の所司代を務めていた浦上則宗によって沢原に安住の地を求め、静寂な日々を送ることとなったものと思われる。
延徳元年(一四八九)三月義尚将軍が二十五歳で陣中にて病没し、延徳二年(一四九〇)正月には、夫義政公が病没した。富子はこの地に一寺を建立、小河山慈照院と命名し、宝篋印塔一基を建立して、夫とわが子の慰霊と念仏の生活を送ったと思われる。
明応五年(一四九六)五月二十日、五十七歳で自庵にて没した。都からの従者沢原氏によって、夫やわが子の供養塔の傍に埋葬されたとのことである。
応仁の大乱の要因は、富子が我が子義尚を無理やりに将軍に据えようとしたことだと言われる。また、富子自身も関銭の徴収や高利貸しによって蓄財した守銭奴のようにも見られる。ネット上では、北条政子や淀殿と並ぶ日本三大悪女とされている。
いったい富子という女性は、どのような人物だったのか。実像を探るため、当時の記録を調べてみた。
『大乗院寺社雑事記』文明九年(1477)7月29日条
御台一天御計之間、
御台一天御計らひのあいだ、
富子さまが天下のことを取り仕切っているので、『宣胤卿記』文明十三年(1481)1月10日条
当時政道、御台御沙汰也。
当時の政道、御台の御沙汰なり。
現在の政治は、富子さまの采配である。
政治の中心が、天皇でも関白でもなく、将軍でも管領でもなく、将軍正室の富子にあったとことを伝えている。富子政権が存在していたのである。ただし文脈としては、富子の政治を歓迎しているのではない。大乗院尋尊(じんそん)は、天下の金銭を富子が敵味方問わず貸し付けていると非難し、中御門宣胤(のぶたね)は、富子が祭礼などの諸行事をきちんと行わないと非難している。
しかし富子の行動のすべてが私利私欲のためだったのではあるまい。夫である将軍義政やいったん後継者とされた将軍の弟義視は、危機的状況を前にあまりにも優柔不断で無策だった。しかも、将軍家を支えるべき家臣団は自分ファーストで分裂状態であった。そんな中で、富子は自らのリーダーシップを発揮せざるを得なかったのが実情であろう。政治を行うにはお金が必要なのは当然のことだ。
いっぽう、当代随一の知の巨人である一条兼良(かねら)の評価は異なる。文明十一年(1479)頃に成立した『小夜のねざめ』では、次のように述べられている。
大かた、此日本国は和国とて、女のおさめ侍るべき国なり。天照大神も女体にてわたらせ給ふうへ、神功皇后と申侍りしは、八幡大菩薩の御母にてわたらせ給しぞかし。新羅百済をせめなびかして、此あしはらの国をおこし給ひき。ちかくは、鎌倉の右大将の北のかた尼二位殿は、二代将軍の母にて、大将ののちはひとへに鎌倉を管領せられ、いみじく成敗ありしかば、承久のみだれの時も、此二位殿の仰とてこそ、義時ももろ/\の大名には下知せられしか。されば、女とてあなづり申べきにあらず。むかしは女体の帝のかしこくわたらせ給ふのみぞ多く侍しが、今もまことにかしこからん人のあらんは、世をもまつりごち給ふべき事也。
大きく言うならば我が日本国は、和みの国で、女性が治めるべき国でございます。アマテラスも女性でいらっしゃいますし、神功皇后というお方は八幡大菩薩の母君でいらっしゃいますよね。新羅や百済を攻めて服従させ、我が国をさかんになさいました。近い例では、源頼朝公の奥方の北条政子さまは、二代将軍の母であり、頼朝公亡きあとは幕政に専念され、良い政治を行いましたので、承久の乱のときも、この政子さまのお言葉があったからこそ、北条義時も御家人たちに命令できたのではないでしょうか。ですから、女性だからと言って軽く見るべきではありません。むかしは女帝で賢明な方が多くいらっしゃいましたが、今もほんとうに賢い方がおられますので、政治をなさるとよろしいでしょう。
女性による政治を礼賛し、富子政権のブレーンとして思想的にバックアップしている。女性の政界進出の遅れが指摘されている現代日本にとっては、貴重な先例と言えよう。兼良は富子の政治力を通して、自らの理想を具現化しようとした。いっぽう富子は、我が子義尚に対する帝王学指南を兼良に期待した。
ところが、富子が手塩にかけて育てた義尚は将軍としての力量に欠け、説明板にもあるように母富子を疎んじるようになる。傷心の富子が、閑静な備前のこの地に本当に隠棲していたならば、心身はずいぶん癒されたに違いない。そして、「御台所」として今も手厚く供養されていることに、人の優しさを感じ、少々安心する思いがする。
小川山自性院常念寺総代会が発行した『小河御所をめぐる沢原の史跡』という小冊子がある。それには「政治力において、また経済的理知において、希にみる才媛でありました。」と記述されている。同時代の知の巨人に「かしこからん人」と呼ばれ、墓を大切に守る地元の方が「才媛」と呼んでいる。おそらく正しい評価だろう。
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