戦国の運命に翻弄された三姉妹の生涯は、今も人を惹きつけてやまない。長女茶々は羽柴秀吉、次女初は京極高次、三女江は徳川秀忠とそれぞれ結ばれ、大坂の陣では敵味方となる。特に茶々の生涯は、三度の落城という憂き目に遭う波瀾万丈伝であった。
玉野市八浜町大崎に「道清夫婦の墓」がある。そのフォルムの美しさから、市の文化財に指定されている。
この夫婦は、常山城の落城に関係がある。天正三年(1575)、常山城主上野高徳は、毛利の攻勢により自害に追い込まれる。しかしその直前、信頼のおける客将、長谷井半之進盛之を呼び寄せ、「この子を頼む」と6歳になる末娘を託していた。娘はやがて大きくなり、半之進の息子半九郎と夫婦となるのである。説明板を読んでみよう。
向って右は道清(本名長谷井半九郎実之)の墓で「道清禅定門」と刻してあり、左はその妻の墓で「妙心禅定尼」と刻ってある。
年代は磨滅して判然としないが、慶長・元和の頃(三百六・七十年前)のものと推測される。
道清の妻は常山落城の時の城主上野高徳の女で落城後、池の内に隠棲し、この地で生涯を終えた。
その子孫が長谷井と称して現在、池の内地区に散在している。
この五輪塔は二基とも花崗岩製で、高さ一四八センチ、均衡が絶妙で雅趣に富んでおり桃山時代の完好な塔である。
平成十八年三月 玉野市教育委員会
常山城主の娘は、戦国三姉妹と同じく落城を経験したものの、その後は権力とは無縁の静かな暮らしを始めた。しかし、村人には気がかりなことがあった。河井康夫『玉野の伝説』に、次のような話が記されている。
この姫に男の子が生れることはそれが常山城主の血につながるという意味から危険であると考えた村の人達は、みんなで申し合わせ、たとえ男の子が生れても、これをかくすため、鯉のぼりや絵のぼりを立てないことにしようとした。
以来この地区では、鯉のぼりを立てない風習が守り続けられてきたという。餅をつかない、ニワトリを飼わないなどと同様、各地に伝わる禁忌伝承の一つだ。埼玉県児玉郡神川町の矢納地区でも鯉のぼりをあげない。平将門が戦った時、鯉のぼりが目立って攻撃目標となり、ついには敗れてしまったからだと伝えられている。
常山城主の上野氏は、さかのぼれば足利氏の流れを汲む。血筋の良さは折り紙付きだ。村人たちの知恵で、姫とその子、そして村の安寧は保たれた。そんな村の歴史を象徴するかのような美しすぎる二基の五輪塔は、今も手あつく供養が続けられている。
お尋ねありがとうございます。すっかり忘れてしまったので、このたび再訪してみました。
大崎から田井へ抜ける道が宇野線に出合ったら、池之内一踏切を渡って宇野線に沿って進みます。突き当りには山側に向かうコンクリートの細道があり、ここを入ると道清夫婦の墓に行くことができます。(途中に動物侵入防止柵があります。)
投稿情報: 玉山 | 2023/02/11 15:56
そこに行きつく道が分からないのですがどこが入り口になるでしょうか?
投稿情報: 玉野市住民 | 2023/02/10 06:02