美しい町には水がある。水は人々の生活を支えるだけでなく、街の雰囲気に潤いを与える。そんな町に歌詠みがやって来るとどうなるか。詩情あるところに歌が生まれ、歌あるところに旅情が生まれる。歌人としては釈迢空(しゃくちょうくう)、学者としては折口信夫(おりぐちしのぶ)、彼が郡上八幡(ぐじょうはちまん)を訪れたら、こうなった。
郡上市八幡町桜町に「郡上八幡北町大火記念釋迢空歌碑」がある。
釈迢空がここを訪れ歌を詠んだ。歌碑には何と書いてあるのだろうか。「大火記念」とは、どういうことだろうか。説明板には、次のように記されている。
氏は、大正八年八月に柳田国男のすすめにより郡上へ来遊したが、あたかも七月十六日の北町の昼火事に町の目抜通りをはじめ、ほとんどが焼け亡んでいた。焼け跡に立った氏は、その情景を歌に詠み、後に歌集「海やまのあひだ」に七首が収録された。この歌碑の歌
「焼け原の 町のもなかを行く水の せゝらぎ澄みて秋近つけり」
はその冒頭の一首である。
「行く水の せゝらぎ澄みて」は、郡上八幡を象徴する情景である。例えば、こんな風景だろうか。八幡町職人町の長敬寺(ちょうきょうじ)前である。
焼け野原と澄んだせせらぎ、真逆のものが同居する悲しいまでに心動かされる風景であったろう。しかし実際の火事に、芸術性など一かけらもなく、あるのは悲惨だけだ。当時の新聞報道によれば、16日午後2時半ごろ製糸工場から出火した。続きを読んでみよう。神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 災害及び災害予防(1-079)大正8年7月19日付け「新愛知」(今の中日新聞)より
折柄東北の強風に煽られ焼くが如き天候と相俟って瞬く内に猛威を逞うし搗てゝ加へて川合村並に八幡町附近の一帯は物資運搬の不便と又冬季に於て雪害を防止する為め瓦葺の家屋は一戸もなく木皮葺なるを以て祝融子の見舞ふのは何等の苦もなくたゞ「あれよあれよ」と叫ぶ裡に川合村大字大崎を舐尽して八幡町大字職人町長敬寺に移り忽ち四方に飛び火して本町、正木町、鍛冶屋町、肴町、上殿町、下殿町、柳町等の吉田川(長良川の上流)を中央とする八幡町を焼き払い同町私設消防組は勿論附近の各消防隊全部出動し死力を尽して消火に努めたが火災現場は地形上水利必ずしも不便ならざるも消防機関に於に纔に軽便□汽喞筒二台あるのみで他は悉く頼みにするに足らず殊に猛火に包まれ尚炎天に曝されては真に焦熱地獄に於て働くと同様にて頓と手のつけやうなく消防に非常なる困難を来したるため前記の各町は猛々たる火焔に包まれ混乱名状すべからざる状態となったが幸にして吉田川を隔てた対岸の人民は豆粒の如き火の子を浴びた許りで一箇の類焼家屋をも出さず同八時半頃鎮火した
それにしても、句読点がなく一文が長いので読みにくい。新聞はいつから今のような読みやすい文体になったのだろうか。国語史を考えるのも面白そうだが、ここではやめておく。
今は美しい長敬寺のあたりも焼けたという。強風にあおられて「あれよあれよ」という間に燃え広がったのは、昨年末の糸魚川大火を思い出す。火事はちょっとした油断から発生することが多い。災害の記憶は防災意識を高める。「大火記念」の歌碑は旅情を誘うためだけではなく、大火の経験を風化させないための記念碑でもあるのだ。
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