「外堀を埋められる」とは逃げようがなくなる意味だ。例えはよくないが、「もり、かけ、スパ」と疑惑の噴出で内閣の外堀が埋められている、などと使われる。今、朝日新聞の報道がきっかけで、財務省公文書改竄の疑惑が追及されている。
それでも、落城しない場合には、どうすればよいか。天下の奇策を用いるしかない。堀をなくしてしまうのではなく、堀を拡大するという新発想。勝利のためには柔軟な思考が大切だ。本日は日本三大水攻めの一つ、高松城水攻めの遺構を訪ねたのでレポートする。ちなみに現実政治の論評はしない。
岡山市北区高松に「史蹟舟橋」がある。
そう書いてあるから分かるが、どう見ても普通の橋だ。幸いなことに高松城址保興会が説明板を作成しているので、読むこととしよう。
高松城は平城で三方を堀で囲まれていたが、この南手口には具足の武士がようやくすれちがう程の細い道があったが、開戦直前に八反堀を堀り外濠とした。そこへ舟を並べて舟橋(長さ約六十四米)となし,城内より進攻の際はこれを利用し又、退く時は舟を撤去出来る仕組で城の西北の押出式の橋と共に大きく防備の役を果たしていた。
この北にある高松城址公園に行くと分かるが、備中高松城を守っていたのは周囲の水である。攻撃の際には架橋し、防御を固める際には撤去できる機動性を備えた橋、それが舟橋だった。
高松城を守る堀というか湿地帯は、広すぎてとても埋めることが出来ない。ならばということで、考案されたのが「水攻め」であった。
岡山市北区立田に「蛙ケ鼻(かわずがはな)築堤跡」がある。「高松城跡附水攻築提跡」として国指定の史跡の一部となっている。
山裾から伸びる堤防の一部を確認できる。説明板では、次のように説明されている。
秀吉は高松城の攻略を、軍師黒田官兵衛の策を採用して水攻めにし、城地の南東約700mの山根(蛙ケ鼻)から、西北西約1,500mの足守川上流まで約3kmの堤防を、わずか12日間で築いたと伝えられています。堤防の内側は訳200haの人造湖となり、外側には部隊を布陣させ、城を逆封鎖してしまいました。
さすがは軍師官兵衛だ。岡田准一のニヤリとした顔が思い起こされる。水攻めは『孫子』や『三国志演義』にも登場する古典的な攻撃法だが、実例が少ないので「天下の奇策」と呼ばれるのだろう。
岡山市北区立田の石井山に「秀吉公本陣跡」がある。
ありがたいことに、雑木の伐採により視界が確保され、のぼりが立てられているので、双方向から位置を確認できる。ここで水没してゆく高松城を注視していた秀吉は、間もなく驚天動地の信長横死を知ることとなるのだ。
本陣から先の道をしばらく進むと「太閤岩」がある。腰掛石にしては大きすぎる。説明板があるので読んでみよう。
秀吉は龍王山から石井山に本陣を移したが、付近にあるこの大岩が着目され、作戦上の目標物として活用したのではないかと言われている。
秀吉と直接ゆかりのある伝承はないようだが、秀吉が陣を構えた山にある岩として「太閤岩」と呼ばれるようになったようだ。近くの住宅団地は「太閤ヶ丘」という名称が付けられている。
備中高松城の戦いは数ある合戦の一つだが、水攻めの奇策と本能寺の変という絶妙なタイミングで、戦国史上有数の戦いとして知られるようになった。安倍城攻防戦の行方は如何に。正攻法か奇策か。倒れるのは内閣か朝日か。
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