地域のアイデンティティを何に求めるかは、地方創生の大きな課題である。「めがね」のまち鯖江のように特産品であったり、「砂丘」のまち鳥取のように自然であったり、「北斎」ゆかりのまち小布施のように人物であったり、はたまた「妖怪」のまち境港のように漫画だったりする。
では、大阪府の河内長野市はどうだろうか。ニュータウンのまちというイメージが強いが、住宅団地は便利とはいえ、人の愛郷心をくすぐる魅力に欠ける。他に何があるだろうか。
河内長野市西代町(にしだいちょう)に「市立長野小学校正門」がある。校舎はふつうだが、この校門だけは重厚な造りとなっている。
市があえてこのデザインにしたのには理由がある。説明板を読んでみよう。
現在の長野小学校の敷地一帯には、かつて江戸幕府の譜代大名であった近江膳所藩(滋賀県大津市内)から分かれた本多忠統が、支配体制の強化のため、この地に河内西代藩陣屋を正徳元年〔一七一一〕から享保一七年〔一七三二〕まで置いたことが、古文書や付近の発掘調査等でわかっています。
また、平成元年に国の「ふるさと創生事業」の創設を契機に、本市においても、地域の歴史や環境を生かした「ふるさとづくり事業」に取り組み、特に小中学校のふるさとづくり事業として、この地に刻まれた歴史を知るために、陣屋門を模して、本校正門を整備したものです。
竹下登内閣の偉業「ふるさと創生」1億円の成果がここにあるのだ。意味不明なシンボルを作ったり金塊にして盗まれたりと、面白おかしく語られることの多い事業だが、河内長野市の予算執行は適切だ。
かつてこの地には譜代大名の陣屋があった。次代を担う小中学生にそのことを伝え、この地域で育ち学ぶことのできる誇りを持ってほしいと願っているのだ。ただし、陣屋門の位置とデザインは正確でなく、あくまでも陣屋町だったことのシンボルである。実際の門はもう少し北にあったようだ。
近くの市立文化会館ラブリーホールに「西代藩陣屋跡遺跡」がある。建設前の発掘調査では、伊万里焼など各地の焼き物、土人形に泥めんこなどが見つかっているそうだ。
この地に陣屋を構えていた西代藩とは何か。お殿さまは二人いらっしゃる。本多忠恒とその子忠統(ただむね)である。本多氏で最も有名なのは徳川四天王、本多忠勝であり、平八郎家と呼ばれて宗家と見なされていた。これに対して忠恒は、かなり昔に分かれた分家の彦八郎家の系統である。
忠恒の父康将は膳所藩主だったが、延宝七年(1679)隠居する際に、忠恒に領地1万石を分与して西代藩を成立させた。忠統の代の正徳元年(1711)6月に陣屋が置かれ、享保十七年(1732)に伊勢神戸に移封されるまで存続した。河内長野市を本拠とした唯一の藩、それが西代藩であった。
二人の藩主のうち、本多忠統は享保十年(1725)に若年寄に任じられ、将軍吉宗の享保の改革を支えた。その功績により神戸藩は1万5千石へと加増され幕末まで続く。
小学校の北側に道をはさんで中学校があるが、ここも陣屋跡地である。現在の地名は河内長野市本多町。もちろん藩主である本多氏にちなんでいる。「門閥制度は親の敵で御座る」(福沢諭吉)などと、近代は封建制を否定してきたはずだが、門閥そのものであるお殿さまへの敬慕の念は、今も失われてはいないらしい。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。