戦国武将は武骨なイメージが先行しがちだが、じつは当代一流の文化人でもあった。歌を詠み能を楽しむ素養がなければ、人心はつかめない。つまり、知性と品格、そして武勇を兼ね備えた一流武将だけが生き残れたのである。中国の覇者、毛利氏もそうであった。
三原市本郷町本郷に国指定史跡「新高山城跡」がある。向かいにある高山城、三原駅にある三原城とともに「小早川氏城跡」として一括で指定されている。
小早川家17代を継いだ隆景は天文21年(1552)、高山城からこの地に本拠を移した。標高197.6mの詰の丸に象徴されるように、いかにも難攻不落の要害に思える。縄張りはけっこう大きく、くまなく巡るとかなりの時間を要するが、登城路は整備されており気持ちよく散策できる。
中腹に小早川家の菩提寺であった「匡真寺(きょうしんじ)跡」がある。庭園跡かと思われる場所に歌碑があり、元就と隆景、隆元の句が刻まれている。書き写してみよう。
永禄四年三月二日
高山城内高間 連歌
何人
若木より観ん夜も 久し花の春 元就
霞みの月に交す 松ヶ枝 隆景
山影も長閑なる 夜の明け初めて 隆元
これは永禄四年(1561)閏3月2日、新高山城を訪れていた毛利元就、隆元父子が、やはり元就の実子である隆景とともに詠んだ連歌である。この時、隆元は匡真寺を宿としていた。
(父・元就)春宵一刻値千金と古人は詠ったが、隆景のような若者は、この花の春の長い夜をどう感じるだろうか。
(三男・隆景)おぼろ月夜に太い松とその枝が浮かび上がり、趣深く思えます。あの松は私たち親子の姿でしょうか。
(長男・隆元)ずいぶん長くお話ししたので、夜が明け始め、山の姿もよく見えてまいりました。まことに穏やかな朝です。
この親子、レベル高過ぎ。戦国武将格付けチェックという番組があったら、一流武将に認定されること間違いなしだ。そんなことを思いながら、本丸へと足を運ぶこととしよう。
本丸虎口の外側に枡形があったようだ。そこが「大手門跡」である。どのような門があったのか。説明板を読んでみよう。
大手道を登りつめたこの場所は、外舛形の大手門跡と推定される。
三原市内にある宗光寺の山門は重要文化財で高山城(新高山城)の大手門を移したものと伝えているが、ここにその門が建っていたとものと思われる。
三原市教育委員会
なんと新高山城にあった建造物が現存し、重要文化財に指定されているという。さっそく見に行くこととしよう。
三原市本町三丁目に国指定重要文化財の「宗光寺山門」がある。重厚な造りで見る者を圧倒する。さすがは隆景の城の大手門だ。
宗光寺は新高山城内にあった匡真寺の法灯を受け継いでいるという。現在地に移転する際に、大手門は山門として移築されたのだろう。
ところが説明板には、驚くべき情報が記されている。
宗光寺山門は、四脚門(四足門)としては全国的に見ても最大級の規模を誇る。
梁組(はりぐみ)などに桃山風な重厚さを見せ、蟇股(かえるまた)の彫刻も多彩かつ豪華である。
小早川隆景が築いた新高山城から移築したとされるが、規模・細部意匠などから、福島氏が現在地に新築した可能性が高い。
三原市教育委員会
同じ三原市教委の説明板だが、言っていることが違う。最新の研究成果を踏まえれば、新築が妥当なのだろう。だが、最大級の規模だという建築的価値や、福島氏の寄進という歴史的価値から、文化財としての評価はいささかも減ずることはない。
では、新高山城の建造物はどこにもないのだろうか。もう少し市街地を探してみよう。
三原市東町三丁目に市指定重要文化財の「極楽寺山門」がある。
三原市教育委員会の説明板を読んで大発見があった。
極楽寺山門は、明治十一年に三原奉行所の門を現在の場所に移築したものである。また、奉行所の門となる以前は新高山城(豊田郡本郷町)の城門であったと伝えられている。
小さな門だが、あの山中にあったのかもしれないと思わせる。往時の新高山城の姿を偲ぶ貴重な建造物ということになるが、市教委の見解が変わっていないか少し心配だ。
慶長元年(1596)、隆景は新高山城を廃して三原城を居城とした。平成17年(2005)、豊田郡本郷町も三原市の一部となった。その三原市の基礎を築いたのが、一流武将、小早川隆景であった。
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