男性とか女性とか性別ではなく、ひとりの人間として能力を発揮できる機会が確保されている。そんな男女共同参画社会を目指していたのだろうか。女帝孝謙称徳の周辺には女性官僚の姿が多い。和気広虫とか吉備由利などはその代表である。
また、ミネルヴァ日本評伝選『孝謙・称徳天皇 出家しても政を行ふに豈障らず』の書評(H26.12.7朝日新聞)で、天皇に詳しい原武史氏は、天平神護元年(765)に位階が男性54人女性44人に、勲等が男性28人女性15人に授けられていることを指摘している。
養老二年(718)、首皇子(おびとのみこ=聖武天皇)と安宿媛(あすかべひめ=光明皇后)との間に、阿倍内親王が生まれた。やがて史上唯一の女性皇太子となり、孝謙そして称徳と二度天皇となる。
激動の奈良朝を差配した政治手腕だけでなく、人間的にも魅力ある女帝孝謙称徳。今年は生誕から1300年となる。
下野市上大領に「孝謙天皇神社」がある。
応神天皇を祀る八幡宮は全国にある。明治天皇を祀るのは明治神宮、後醍醐天皇を祀るのは吉野神宮、崇徳天皇と淳仁天皇は白峰神宮に祀られている。だから孝謙天皇を祀る神社があっても何の不思議もないが、なぜ下野にあるのだろうか。由緒を記した説明板を読んでみよう。
今から約千二百余年の昔、下野国薬師寺の別当に弓削道鏡が配流された。かつて道鏡は法王として孝謙天皇(女帝)に最も厚い信任を得ていました。
女帝は配流された道鏡をあわれみ、この地にまえり病没したと言い伝えられていますが、女帝の崩御後、道鏡と共に女帝に仕えていた高級女官の篠姫・笹姫も配流されてきた。
二人は奈良の都には永久に帰ることが出来ないことを悟り、女帝の御陵より分骨をして戴き、銅製の舎利塔に納め当地にあった西光寺に安置し、女帝の供養につとめた。
その後、西光寺は廃寺となり、村人達は舎利塔を御神体に祀り孝謙天皇神社と改め、 八月四日(崩御の日)に女帝を偲び、清楚なお祭りを催し今日に至っています。
「まえり」は「まいり」だろうが、とにかく女帝が下野まで下ってきたというのだ。そしてこの地で病没したという。『続日本紀』(巻第三十)神護景雲四年八月四日条には、次のように記されている。
癸巳。天皇崩于西宮寝殿。春秋(みとし)五十三。
正史では、53歳で平城宮において亡くなっている。もちろんこちらが正しい。それでも下野の人々が、女帝が道鏡を追ってこの地に来たと信じたのは、信じ合い愛し合った二人を引き離すわけにいかなかったからだろう。それが人情というものだ。
さらには、高級女官の篠姫と笹姫も流されてきたという。官僚に過ぎない彼女らが何をしたというのか。官僚は上司に気を遣って業務を遂行しているだけなのに。忖度させておいて、忖度する奴が悪いということか。
女帝孝謙称徳を最後に女帝はしばらく登場しなくなる。奈良朝では活躍が見られた女性官僚も、平安朝では目立たなくなってしまう。女帝が実現しようとした男女共同参画朝廷の終焉を、この伝説が象徴しているように思えてならない。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。