大河『西郷どん』は、いよいよ西南戦争へと向かっていく。薩摩藩が鹿児島にあったから、西南戦争が鹿児島で勃発したように思われているが、そうだろうか。
私は九州だから反乱がおきたのではないかと思う。神武天皇東征に始まり、磐井の乱、藤原広嗣の乱、尊氏の九州下向、懐良親王の征西府など、九州は地政学的に中央に対する反抗拠点になりやすいのである。
武雄市武雄町大字富岡に「鎌倉水(かまくらみず)」がある。井戸のふたを開けてみると、澄んだ水が溜まっていた。
九州なのに「鎌倉水」とはどういうことか。説明板を読んでみよう。
寿永2年(1183)壇の浦の戦のおり源頼朝は武雄神社に戦勝祈願をしました。文治元年(1185)平氏が滅び翌年頼朝は武雄神社に御教書を下しました。武臣の天野遠景(あまのとうかげ)は朝廷からの勅使藤原基氏(ふじはらもとうじ)を奉じ戦勝のお礼参拝のおり源氏の祖清和天皇ゆかりの柏姫(かしはひめ)の墓陵(円応寺)にも参拝しました。
烏帽子を捧げ、墓前に浄水を献げました。
この浄水を汲んだ井戸(泉)を鎌倉殿が汲んだ水ということから、その後鎌倉水と呼ぶようになり、800年を経た今日でも絶えることなく美しい清水がこんこんと湧き出ています。
やはり源頼朝が関係していた。「勅使藤原基氏」はよく分からないが、「清和天皇ゆかりの柏姫」は清和天皇(惟仁親王)の母の妹だと伝えられ、惟喬親王との立太子争いの折り、香椎宮、英彦山、高良山を巡礼し、この地で没したという。
頼朝が天野遠景を鎮西奉行として九州に派遣したことは確かだ。頼朝が清和源氏であることから柏姫の伝承が生まれたのかもしれない。東国政権が九州を鎮圧することは、政権の安定に不可欠の要素であった。
実際に九州では、蒙古襲来まで大きな混乱は発生しなかった。そう考えると、この「鎌倉水」は鎌倉幕府の九州掌握の象徴のように思えてくる。西郷どんの戦争は熊本までしか進めなかった。尊氏は九州を掌握して東上し、幕府を開いた。九州を制する者が、日本を制するのである。
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