織田信長の銅像は全国に10体以上あるといわれ、このブログでも「戦国の覇王は駅前に立つ」で安土駅前の信長像、「戦国聖地巡礼・桶狭間(名古屋市緑区編)」で戦場の信長像を紹介した。長崎の平和祈念像で知られる北村西望も信長像を制作している。馬で疾駆する若き日の信長の姿で、芸術性の高さは群を抜いている。
本日は数ある信長像の中でも、最年少の像を紹介しよう。
愛西市勝幡(しょばた)町の名鉄勝幡駅前に「織田信秀と土田御前に抱かれた幼少期の信長」という像がある。
信長よりも両親のほうが目立っているが、信長にもこんな時期は確かにあった。それにしても、赤ちゃん姿が銅像になるのは珍しい。生まれてすぐに歩いたという釈迦の姿を表した誕生仏以外には、寡聞にして知らない。
信長が生まれたのは天文三年(1534)5月28日。父の信秀は当時、この近くにある勝幡城の城主であった。
稲沢市平和町城之内に「勝幡城址」の大きな石碑がある。石材は安山岩に分類される硬い根府川(ねぶかわ)石で、大正四年の建立である。
「愛知縣」とあるが県指定の文化財ではなく、地域の住人が当時の松井茂知事にお願いして建立したことが関係しているらしい。川沿いに南へ行けば、勝幡城の石碑がもう一つある。
同じく平和町城之内に「織田弾正忠平朝臣信定古城蹟」と刻まれた石碑がある。この地は「勝幡城跡」として市の史跡に指定されている。碑は明治四十三年に建立された。
勝幡城はずいぶん広かったらしく、この地は城の南端あたりと考えられている。稲沢市教育委員会による説明板を読んでみよう。
永正年中(一五〇四~一五二一)織田信定によって津島支配の拠点として築かれた。その子信秀は永正七年(一五一○)この城で生まれ、父の跡を継ぎ、尾張守護斯波氏の三奉行の一人として清須城に出仕した。その子織田信長も天文三年(一五三四)この城で生まれたとする説が有力である。
勝幡城は信長の祖父信定によって築かれ、信長の生誕地とする説が有力だという。別説は『名古屋合戦記』に基づく那古野城(今の名古屋城二之丸)説である。父信秀が「名古屋ノ城」を奪取したことを記した後、「天文三年ノ正月信長此城ニ誕生アル御女儀ハ土田氏ノ女也」とある。
終焉の地である本能寺は知らない人がいないくらいだが、生誕の地が語られることは少ない。ここは両者の釣り合いを考慮して、近世を切り開くこととなる偉大な赤ちゃんの銅像に詣で、勝幡城を大いに顕彰しようではないか。
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