東洋経済新報社によれば、財政健全度第1位は愛知県みよし市だそうだ。名古屋市のベッドタウンとして人口が増え、自動車関連の企業業績が好調なことから、安定した税収を確保できている。市の財政課は鼻高々だろう。
古今東西、行政に財源は不可欠である。江戸時代の藩もまた同じ。本日は成羽藩の「財政課」の話である。
高梁市成羽町下原に市指定文化財(建造物)の「成羽藩勘定所」がある。
商店街の入口という格好の場所にある。古そうな建物だが、どのような価値があるのか。成羽町教育委員会(当時)の詳しい説明板があるので読んでみよう。
この建物は江戸時代の成羽藩勘定所で、山﨑氏時代の中央役所の面影を伝える武家屋敷丁随一の建物である。鬼瓦には山崎氏定紋「緋扇之内ニ四ツ目結」が見え、昔の姿をよくとどめている。
家老の下に用人・大目付・寺社奉行・町奉行・作事奉行・勘定頭を置いて領政を行う組織が、山﨑氏の職制で、勘定頭の詰所が勘定所であった。別掲勘定所の職制表の通りに、年貢蔵米管理を始め、成羽領財政を支えた高瀬舟運行と運上金管理、領土の約七割を占める山林資源の経営管理、更には連島や大阪中之島の飛び領支配も所轄する文字通り成羽領政の心臓部となる重要な役所であった。
享保一五(一七三〇)年の一匁銀札をはじめ、成羽領の古札も沢山遺っており、多量の藩札を印刷発行して幕末維新の財政難に対処した事を記録した村方文書も遺っている。この勘定所の機能が停止するような異変や災害がおきると、成羽川流域の民生不安を招く重大事に発展する虞があり、重層の頑丈な土壁で囲い、天井の上に載せた瓦葺の大屋根や、撥階段等、周到な耐火盗防災構造をもった建物で、成羽領政の史跡と共に、江戸期の重要な建造物の構造様式の遺構としても貴重で、成羽町指定文化財に指定し、保存することにした。
現代の物流はトラック中心だが、江戸時代の貨物は高瀬舟で運ばれていた。高梁川水系の物流拠点の一つが成羽にあったのだ。成羽町教育委員会『成羽史話』は、次のような里謡を伝えている。
五千石でも山崎さまは御門前まで船が着く
五千石でも山崎さまは今日の勢五万石
成羽の領主が大名として立藩していたのは、江戸時代の初めと維新後であり、その間は五千石の交代寄合格の旗本であった。ところがその陣屋町は大名の城下町のような繁栄ぶりだったという。連島(今の倉敷市連島地区)の干拓を行い、大坂の中之島に蔵屋敷を設けていた。中之島の東端はかつて「山崎の鼻」と呼ばれていたらしい。
これなら税収も安定していたように思えるが、「多量の藩札を印刷発行して幕末維新の財政難に対処した」というから、台所事情はどこの藩も同じだったのだろう。財政課長である勘定頭は、この堅牢な建物の中で、財政健全化にずいぶん頭を悩ませたにちがいない。
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