天地開闢以来、有名な姉と弟と言えば、神話ならアマテラスとスサノオ、近代文学なら与謝野晶子と鳳籌三郎(ほうちゅうざぶろう)であろう。鳳籌三郎の名はあまり知られていないが、「ああ弟よ、君を泣く」の弟である。
本日は、奈良朝廷で活躍した姉弟、和気広虫と清麻呂について、頼山陽が壮大なスケールで詠った漢詩を鑑賞することとしよう。
三原市八幡町の御調八幡宮前に「頼山陽文学碑」がある。題額は文部大臣奥野誠亮の揮毫である。彼が文相を務めたのは田中内閣の時で、この碑は昭和49年に建てられた。
碑文は頼山陽の自筆を写したものである。副碑の読み下し文を参考に読んでみよう。
法燈何ぞ独り千春を照らすのみならん
阿弟は天を擎(ささ)げて日輪を挽く
似ず李家宗社の覆るは
却って粥を煮て鬚を爇(や)くの人に由るに
八幡山神宮寺に八景之勝有り。遍く題詠を請うて余に至る。余特に全寺勝跡の最も大なるものを詠じ以て責を塞く。
山陽外史頼襄
かなり難解な詩だが、意訳すれば次のようになろう。
姉・法均が仏の教えを実践して社会に貢献しただけではない。
弟・清麻呂は天皇家を存続させ我が国を守った。
滅んでしまった唐王朝とは似ても似つかない。
むしろ似ているのは姉のために粥を炊き髭を焦がした李勣(りせき)だろう。
これでもまだ解説を要する。和気広虫は孝謙上皇に仕え、上皇に従って出家し「法均」と号した。83人の孤児を養ったとの記録は、児童福祉の濫觴と言ってよいだろう。
広虫の弟・清麻呂は、称徳天皇と道鏡による皇位私物化に勇気をもって抵抗し、皇統の権威保持に貢献した。桓武天皇からの信頼が厚く、平安京への遷都を実現させた。
我が国の皇統は万世一系で連綿と続いているが、和気姉弟と同時代に栄えていた唐王朝の李家は滅びてしまい、帝位は別の家へと移った。皇統の在り方において、日本と唐はまったく異なる。
姉と弟といえば、唐の宰相・李勣が思い浮かぶ。李勣は病気になった姉に食べさせようとおかゆを焚いていて、誤ってひげを焦がしてしまった。召使いが家にいるくらい出世していたので、姉が「自分でしなくても」と言うと、弟・李勣は「私たちはけっこうな歳ですから、姉さんのためにおかゆを作ろうと思っても、できなくなるかもしれませんからね」と答えたという。
これは朱熹(朱子)が編んだ修身書『小学』の「善行」に掲載されている逸話である。原文を読み下し文で読んでみよう。
唐の英公李勣、貴きこと僕射(ぼくや)為(な)り。その姉病めば必ず親ら火を燃やし粥を煮ることを為す。火その鬚を焚く。姉曰く、僕妾多し。何為(なんすれ)れぞ自ら苦しむこと此の如き、と。勣曰く、豈(あ)に人無しと為さんや。顧(おも)ふに今姉年老ひ、勣も亦老ひぬ。数々姉の為に粥を煮んと欲すと雖(いへど)も、復た得可けんや、と。
頼山陽は広虫の流謫地を訪ねて、和気姉弟を称えるだけでなく、中国とは異なり王朝交代のない我が国を礼賛した。話を大きくしたところで、姉弟の逸話なら中国にもあるよ、とさりげなく紹介している。さずがは古今の典籍に通じた碩学である。
朱子学が重んじられた江戸時代には『小学』が教科書として活用されたというから、「粥を煮て鬚を爇くの人」とあれば、一般の人も「ああ李勣のことね」と理解できたのかもしれない。「令和」の典拠が国書になったことが歓迎されているが、漢籍を軽んじることがあってはならない。中国の古典は教養の宝庫なのだ。
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