よそ者を活かすか殺すかは、その組織の体質による。コミュニケーションがさかんな職場なら、中途採用者も自己開示しやすく能力が発揮できる。風雲急を告げる幕末維新期に津山藩を動かしたのは、中途採用者であった。
鞍懸吉寅(くらかけよしとら)、通称寅二郎は、赤穂藩の足軽出身ながら津山藩の藩儒として招かれ、国事周旋に奔走する。維新後は藩の権大参事に出世した。この寅二郎は慶応三年(1867)に、ある顕彰碑の碑文を撰している。
津山市院庄に「貞烈純孝島田母子之碑」がある。右端に「本藩 鞍懸吉寅謹撰」と刻まれている。
「貞烈」とは女の操をしっかり守っていること。「純孝」は真心を尽くして親孝行すること。島田家に何があったのだろうか。時に文久元年(1861)4月29日、島田家の母なかと娘あさのが自害した。あさのが書いた遺書には、酒粕を盗んだのは私たち親子であって父馬之丞は無実であること、が訴えられていた。
馬之丞は病気がちで農事ができず、家も没落していたが、なかとあさのは耕作に内職にと昼夜働いて生計を維持していた。これを見かねた馬之丞はある家から酒粕を盗み出し金に換えようとしたが、発覚して入牢させられていたのである。妻は夫の、娘は父の身代わりとなって家の恥を雪ごうと死を選んだのであった。
藩当局は情状を酌量して馬之丞を釈放し、村人に母子を手厚く葬らせた。馬之丞は悔い改めて剃髪し、近くの清眼寺に入って母子の冥福を祈ったという。
このことが鞍懸寅二郎の耳に入り、顕彰碑の建立に至るのである。寅二郎は事件の詳細を記録し、その意義を明らかにした。彼が撰した碑文には、次のような一節がある。
臣又考諸吾州。貞観中有秦豊永以孝蒙旌賞。元禄中有神崎則休茅野常成。仕於赤穂侯与大石良雄等倶殉国難。(中略)今此二女生長乎是村与貞観之孝子元禄之義士。媲芳名於千載者亦可謂吾州奇也哉。
二人の女性の行いは、貞観の孝子秦豊永(はたのとよなが)、元禄の義士神崎則休(かんざきのりやす)茅野常成(かやのつねなり)に匹敵するという。
神崎と茅野は美作出身の赤穂義士である。秦豊永とはどのような人物なのか。六国史の一つ『日本三代実録』巻第十一の貞観七年十一月三日条を読んでみよう。
三日庚辰。美作国久米郡人秦豊永。天性孝行。志在恭順。幼稚之年。致養二親。父母亡後。常守墳墓。叙位三階。免同籍課役。表門閭。令衆庶知焉。
美作国久米郡に秦豊永という人がいた。素直な孝行息子で両親によく尽くした。父母が亡くなってからは、いつも墓を大切に守り暮らしていた。このことを官が認め、三階の位を与えられ課役を免除された。さらに村の入り口に掲示して人々に知らせることとした。
美作には、孝行息子や忠義の武士を輩出した歴史がある。島田家のなかとあさのが夫であり父である馬之丞を守ろうした無私の行いは、過去の二例に並ぶくらいの奇特なことである。寅二郎はそう評価したのだ。
文久二年(1862)に津山藩に採用された新参者である寅二郎は、地域に受け入れられるべく努力したはずだ。顕彰碑の建立もそんな努力の一つだったかもしれない。国事周旋に奔走して藩の利益を守ったことで同僚からの信頼も高まり、維新後、藩の中枢メンバーに投票により選ばれた。
ただ、よそ者と見て根強い反感を持つ輩もいたらしく、明治四年(1871)8月12日に津山城下の椿高下で寅二郎は暗殺される。その前の月に廃藩置県が断行され、津山藩はなくなっていた。「貞烈純孝島田母子之碑」は、津山の幕末維新を駆け抜けた寅二郎の事績を今に伝える貴重な文化財である。
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