中国地方を代表する戦国大名といえば、毛利元就を思い浮かべるだろう。しかし、天文二十一(1552)年の段階で最強だったのは尼子晴久である。その勢力は山陽山陰11か国のうち8か国に及んだ。将軍足利義輝から、因幡・伯耆・出雲・隠岐・備前・備中・美作・備後の守護に任ぜられたのである。
津山市一宮に鎮座する「中山神社本殿」は国指定重要文化財である。
地名から分かるように、中山神社は美作国一宮である。一国を代表する神社だけに、広い社地は静寂に包まれ、神が近くにおわすことが感じられる。社殿も荘厳で特に本殿が有名である。津山市教育委員会の説明板を読んでみよう。
中山神社本殿(国指定重要文化財、大正三年四月十七日指定)は、『作陽誌』等によると戦国時代に兵火に遭ったものを永禄二年(一五五九)に戦国大名の尼子晴久が再建したものと伝えられています。入母屋造、妻入で向唐破風(むかいからはふ)の向拝を有するこの本殿は、「中山造(なかやまづくり)」と呼ばれる美作地方独特の神社建築様式であり、中山神社本殿を最古の例としています。
確かによく見る本殿の建築様式は、流造(ながれづくり)という屋根の前のほうが長く伸びた様式だ。いっぽう中山神社の「入母屋造に唐破風」はずいぶん豪華に見える。出雲大社の影響があるという。この地方の神社ではいくつか見ることができ、中山神社本殿が最古の例とのことだ。
ここで注目したいのは、尼子氏の全盛期を築いた晴久が中山神社を再建し、本殿もこの時の造営ということだ。支配地域の人心を掌握するには、信仰の場を保障することが効果的なのだ。
ところが、神社再建からほどない永禄三年に晴久は急死してしまう。脳溢血だと言われる。ライバルの毛利元就よりも若い死であった。その後尼子氏は急速に弱体化し、永禄九年(1566)に本拠の月山富田城を毛利元就に明け渡すこととなる。
津山市総社に鎮座する「総社本殿」は国指定重要文化財である。この神社は通常、美作総社宮と呼ばれている。
中山神社が諸国にある一宮であるのに対して、美作総社宮は諸国にある総社の一つである。律令制のもとにおいて、国司は地域の神社を巡拝することとなっていた。しかし、正直面倒くさいと思ったのか、国府近くに祭神を一か所に集めて総社を設け、国司はそこに参拝することとした。働き方改革の一環であろう。
この神社の本殿も中山造である。どのような価値があるのか、説明板で確認することとしよう。
現在の本殿は永禄十二年(西暦一、五六九年)に毛利元就が造営したものでのち明暦三年(西暦一、六五七年)に国主森長継が大修理を加え近くは昭和七年に国と氏子の崇敬者一同の協力によって解体修理が行われました。
この社殿の造りは入母屋妻入の独特な様式をもち規模、豪壮で華麗な彫刻を総社宮に配置した桃山時代の代表的なすぐれた建造物で全国の総社宮のうちで当社のみが大正三年国宝に、現在は国の重要文化財に指定されています。
永禄十二年(1569)に毛利元就が造営したという。十年前には尼子氏の勢力圏だった津山地域が、毛利氏の勢力下におかれたことを意味している。まさに十年ひとむかし、盛者必衰のことわりをあらわしている。
もっともこの神社に残る最古の棟札は江戸期になってからのもので、中山神社本殿と並ぶくらいに古いわけではなさそうだ。それでも、大正三年に文化財に指定された当時は、全国の総社のうち唯一の国宝(現在の重文)だったという。
試みに文化庁の国指定文化財等データベースで「総社」を検索すると、「泉井上神社境内社和泉五社総社本殿」を見つけることができる。こちらは和泉国総社で、その本殿は慶長十年(1605)に豊臣秀頼が建立した。文化財指定は大正十三年である。つまり、諸国の総社の建造物では、美作国総社がもっとも早く文化財指定を受けているということになる。
中山造の二つの本殿。建造物としての美しさもさることながら、美作の戦国時代の語り部でもある。この後、毛利氏も美作から駆逐され、宇喜多氏の支配が確立して戦国は終焉を迎える。その宇喜多氏も、その次の森氏も美作を去ることとなる。まさに盛者必衰であった。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。