『平家物語』の冒頭には反逆者のリストが掲載されている。「遠く異朝をとぶらえば」と中国においては、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱异、唐の禄山の4人が挙げられ、「近く本朝をうかがふに」と我が国においては、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼の4人に続いて平清盛を挙げ、本題に入るのである。
本日は「康和の義親」にまつわる史跡をレポートする。
津山市小原に「鉾立石」がある。この道をまっすく進むと美作一宮、中山神社がある。
塔心礎に似ているが、それにしては小さすぎる。小原町内会が設置した説明板を読むことにしよう。
中山神社は軍神として仰がれ天慶中の平将門の乱、嘉承二年(西暦一一〇七年源義親が出雲で叛した時)弘安四年蒙古軍冠のとき平定の大祭を行ったと神伝に伝えられている。その祭事の方法は独特の秘事で大鉾を祭壇の中央に立て、また、四方に小鉾を立てたので鉾立祭と言う。嘉承の祭りに用いられた当時の鉾立石が此の碑の前の穴のあいた石で昔時この一帯はうっそうとした森で、ここに大築(おおつき)神社があったが大正二年中山神社に合祀されて社はないがこのあたりは今も大月と呼ばれている。
この石に鉾(ほこ)を立てて神事を行い、反乱の平定を祈願したのだ。調伏の対象となったのは平将門、源義親、そして蒙古軍である。この鉾立石は源義親の乱に際して用いられたという。義親とはどのような人物なのか。
義親は八幡太郎義家の子。対馬守に任じられたものの、康和三年(1101)に殺人や官物横領により大宰大弐の大江匡房から告発された。父義家は郎党の首藤資通を派遣して連れ戻そうとしたものの、翌四年、資通は義親と共謀して鎮撫使を殺害してしまう。ミイラ取りがミイラになったのである。朝廷は義親の隠岐配流を決定した。
ところが義親はおとなしく刑に服さず、嘉承二年(1107)に出雲で国司の目代を殺害し官物を横領した。事ここに及んで朝廷は義親を追討することとし、これを平正盛に命じた。翌三年に正盛は見事に義親を討ち、首級を掲げて京に凱旋した。
本日紹介の鉾立石が用いられた「嘉承の祭り」とは、義親調伏を祈願する祭事だったのである。中山神社に祈願が命じられたのは、美作に出雲街道が通じているため、神威によって乱の拡大を防ごうとしたからだろう。
さすが中山神社、おかげさまで乱の平定は速やかに終了することができた。正盛の討伐があまりにも鮮やかだったので、義親の死を疑う者もいたらしく、後年4人ものニセ義親が出現したという。正盛に力添えをした軍神も、そこまでは予想していなかったことだろう。
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