宇宙のように長大な小説『大菩薩峠』の「安房の国の巻」において、作者の中里介山は、ある僧侶を形容して、次のような表現をしている。
ことにその頭が法然頭(ほうねんあたま)―といって、前丘(ぜんきゅう)は低く、後丘は高く、その間に一凹(いちおう)の谷を隔てた形は、どう見ても頭だけで歩いている人のようであります。
試みに「法然上人」で画像検索すると、そのような頭をした上人のお姿を拝見することができる。栄西禅師の頭も特徴的だから、高僧の相はおそらく頭部に現れるのだろう。本日は法然上人の伝説地の紹介である。
兵庫県佐用郡佐用町山田と佐用町佐用の境のあたりに「法然上人御腰掛石」がある。石碑は明治29年に建立されている。
ここから西へ向かえば後醍醐天皇も通過したという「杉坂史蹟」があるから、この道は古くから播磨と美作を結ぶ交通路だったのだろう。美作出身の法然上人は13歳か15歳で比叡山に入って学問を修めたが、上京の際にはこの道を通過したはずだ。
法然少年がここで休んだというのか。何か手掛かりはないかと調べてみれば、法然上人鑽仰会『浄土』54巻6月号に、児童文学者で法然研究家でもある高橋良和さんが「佐用の腰掛け石」と題して、この石についての紀行文を寄せられていた。これによると碑の横には木の立札があり、次のように記されていたというのだ。
法然上人は美作の国を出て、比叡山に登って浄土宗を聞いたが、その後、度々故郷の美作の国に帰っている。そのときはいつもこの地を通ってこの石に腰をおろしたのである。村人たちは、この上人のすが(た)にふれて親しくなっていた。それで後世この石を腰掛け石と名づけて保存するのである。
写真でも右横に立札らしきものがあるが、なにも読み取ることはできない。この地の言い伝えでは、法然上人が帰郷する際に腰をおろした石とされている。ところが史実を確認する限り、法然上人が美作に帰ったという記録はないそうだ。
それが伝説の妙味というものだろう。誰しも故郷は懐かしいものである。俗世間を離れてひたすら称名念仏に励み、名を成してからは後白河法皇や九条兼実との交流を持った法然上人であっても、故郷の美作国久米南条稲岡庄を忘れることはなかったはずだ。帰郷がかなわなかった上人に対するせめてもの供養として、腰掛石の伝説が語り伝えられたのだろう。
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