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三菱鉛筆は三菱財閥とは何の関係もない。三菱マークや「三菱」を商標登録したのは鉛筆会社のほうが先なんだそうだ。だから、三菱グループのすごさを表す「鉛筆からロケットまで」は誤解で、「ラーメンからロケットまで」が正確なようだ。
「みつ」が共通している三井・三菱は語呂がいいのか並び称されることが多く、現在も街角でセブンとローソンが競り合うなど、我が国の経済の基幹を支えている企業集団である。だが、三井がその歴史を延宝元年(1673)までさかのぼることができるのに対し、三菱は明治三年(1870)である。その三菱の創業者に会うため、はるばる東シナ海の島に渡ったのでレポートする。
長崎市高島町光町に「三菱創業者 岩崎彌太郎之像」がある。平成十六年に当時の高島町によって建立された。長崎市との合併直前であり、彌太郎の三菱なくして語ることはできない高島の歴史を伝えようとしたのだろう。
我が国の進むべき道を指し示すかのような堂々とした像だ。製作は山崎和國で、風頭公園の坂本龍馬像の作者でもある。実際に指さしているのは南西の方角だから、東シナ海そして中国南部がある。彌太郎と高島との関係について、高島町の説明板は次のように記している。
高島炭坑は、江戸時代中期以降佐賀藩が採掘していた。幕末に英国人トーマス・B・グラバーをパートナーにして近代的操業を試みたが、明治三年にグラバー商会が倒産してしまい行き詰まった。明治七年以降は、後藤象二郎の蓬莱社が払下げを受け操業したが、やはり資金繰りに窮してしまった。見かねた福沢諭吉と大隈重信が、日の出の勢いの岩崎彌太郎に炭坑の買取りを進言した。
それが岩崎彌太郎と高島炭坑の出会いである。
当初、高島炭坑は、一五〇万トンの炭量とわずか八年の炭命と見られていたが、関係者の創意と工夫と努力とによって一〇五年間操業を続け、昭和六十一年(一九八六)十一月二十七日に閉山するまでに、実に五五〇〇万トンの出炭を記録した。
岩崎彌太郎が高島炭鉱を買い取ったのは、明治十四年(1881)のこと。閉山時の経営会社は、三菱鉱業セメントの子会社である三菱石炭鉱業であった。高島の近代は常に三菱とともにあった。
三菱鉱業セメントは現在、三菱マテリアルという会社になっている。銅やアルミなど各種金属を扱っているが、金地金も扱い、日韓関係が不透明な今こそ資産形成は金で、と売り込んでいる。かつて石炭は「黒いダイヤモンド」と呼ばれる重要資源だったが、我が国の鉱業が構造的に大きく変化した今、三菱は「黒ダイヤからキンキラ金へ」との事業転換に成功した。さすが彌太郎の会社は格が違う。
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