台風とか原子爆弾のような忌まわしいものにニックネームをつけるのは、アメリカンの悪い癖だ。ウラン型広島原爆は「リトルボーイ」、プルトニウム型長崎原爆は「ファットマン」と呼ばれた。
私はむかし、リトルボーイは原爆ドームの真上で炸裂したものと思っていた。正確には原爆ドームから南東に約150mの地点、現在の島内科医院の上空約600mで炸裂したのだった。医院前に爆心地であることを説明する石碑が建てられている。
比較的控えめな広島の碑に比べて、ファットマンの爆心地には大きなモニュメントが建てられているのでレポートする。
長崎市松山町の爆心地公園に「原子爆弾落下中心地」という銘板が付けられたモニュメントがある。三角柱を黒御影石で飾っている。被爆当時は、三菱長崎造船所の女子挺身隊の宿舎予定地だったという。
モニュメントの前には原爆殉難者名奉安箱があり、原爆死没者名簿のマイクロフィルム化したものが納められている。74年前にここで起きた出来事を、金属製の説明板は次のように語っている。
昭和二十年八月九日午前十一時二分、一発の原子爆弾が、この地の上空五〇〇メートルでさく裂し、一瞬、七三,八〇〇人の尊い生命を奪い、七六,七〇〇人の負傷者を出した。同時に、家屋の焼失一一,五〇〇戸、全壊又は大破したもの六,八〇〇戸、この地を中心として、二・五キロメートルに及ぶ地域が壊滅した。その惨状は筆舌に尽し難い。
ここに原子爆弾落下の中心地を示すためこの碑を建てる。
昭和三十一年三月 長崎市長 田川務
筆舌に尽くしがたい惨状を若い世代に伝える語り部活動をされている方のお話を聞いた。7万という数字ではなく、ひとりの命の物語だった。市街地の被害もさることながら、放射能を浴びたことに対する偏見が被爆者を苦しめた。なぜ死ななかったのか。生きていることを呪いさえしたという。
被爆直後は75年間草木も生えないとの風評が流れた緑豊かな平和公園で、今年も平和祈念式典が開催された。被爆者代表は自身のつらい体験を語った後、次のように安倍首相に訴えた。
この問題だけはアメリカに追従することなく、核兵器に関する全ての分野で、核兵器廃絶の毅然とした態度を示してください。
唯一の被爆国、日本だからこそ言えることがある。核兵器廃絶に対する揺るがぬ姿勢は、世界からも認められるはずだ。この訴えは、個人が感想をつぶやいているのではなく、当事者の心からの願いとして、公の場で発せられたものである。毅然とした態度を示することができるのは韓国だけで、アメリカには阿諛追従の徒に成り下がるとは、まさに我が国の底が知れるというものだ。
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