「さらさら」と聞けば、岩場を滑る水の流れを思い出すが、近年は血液の状態を表すことが多いようだ。ドロドロになって詰まってしまうのは何としても避けたいと思う。血液サラサラが当たり前だった古代の人は、「さらさら」でどのような表現をしているだろうか。
『万葉集』所収の「多摩川にさらす手作りさらさらに…」は、以前の記事で紹介した。水の流れ「さらさら」は布を「さらす」と押韻、「さらにさらに」という意味と掛詞の関係にある。
本日紹介するのは、『古今和歌集』巻第二十「神遊びの歌」1083番の歌である。鑑賞しよう。
みまさかや 久米のさら山 さらさらに 我が名は立てじ 万代までに
これは水の尾の御べの美作の国のうた
「みまさかや 久米のさら山」は「さらさらに」を導く序詞だから、意味は「浮き名を立てるようなことは、決してしない。いついつまでも。」と解釈するのが通説だ。つまり「さらさらに」には、「ますます」と「決して~ない」の二つの使われ方がある。
序詞に登場する美作国の「久米のさら山」は、歌枕として知られていた。いったいどこにあるのか。美作国の中心都市、津山市で探してみよう。
津山市中島の「嵯峨山(さがやま)城跡」に「佐良山(さらやま)碑」がある。どちらも市の重要文化財(史跡、石造美術)に指定されている。
嵯峨山城は、出雲街道と吉井川の結節点という交通の要衝に築かれており、支配者は尼子氏、毛利氏、宇喜多氏と変遷した。この城の主郭に佐良山碑が建てられている。どのような碑なのか。津山市教育委員会の説明板を読んでみよう。
佐良山碑は、『東作誌』を編纂した津山藩士正木輝雄(まさきてるお)らによって、文化十三年(一八一六)の八月に嵯峨山の山頂に建てられた石碑である。碑文を作成した小嶋廣厚は、津山藩の儒者である。また、碑文を揮毫した太田定幹は、書家としても広く知られる津山藩士である。
佐良山碑の碑文によれは、正木輝雄らは、後鳥羽上皇や後醍醐天皇を始めとして、古くから和歌に詠み込まれてきた佐良山が、笹山のことであるとする地域住民の説に対して、『作陽誌』を根拠として中島村の嵯峨山を久米の佐良山であるとする。そして、そのことを後世に伝えるために石碑を建てたのである。
久米の佐良山とされる候補地は、三箇所で、津山市中島の嵯峨山、津山市皿の笹山、津山市一方の神南備山である。
なんと地域住民の声を無視して、行政が「久米のさら山」を認定してしまったという。その根拠とした『作陽誌』は元禄年間の編纂である。佐良山碑建立の100年以上前ではあるが、平安時代の地理認識を正確に伝えているだろうか。地域住民の口碑を軽んじてはならない、とはいえ、こちらも正確さは検証不能だ。
「さら山」の「さら」は、「佐良」とも「皿」とも書く。「嵯峨山(さがやま)」や「笹山(ささやま)」とも読みが似ている。候補の山がある中島、皿、一方は、かつて久米郡佐良山村だった。いったい「久米のさら山」は、どこにあるのか。「皿」と手がかりとして、お皿の形の山を探そう。
美作二宮の高野神社の下の道は出雲街道である。ここから吉井川に架かる宮下橋を渡りながら南東方向を見てみよう。左が神南備山、右が笹山である。お皿のように平べったいが、それほど印象に残る風景ではない。
橋を渡って吉井川の堤防から南南西に嵯峨山を見ている。お皿には見えない。津山藩が「久米のさら山」に認めたのが不思議なくらいだ。
有名な歌には歌碑が建てられることが多い。手がかりになるのではと探してみると、2基の歌碑が見つかった。
津山市山下の津山観光センター前に歌碑がある。津山観光協会が平成2年に建立した。ここから近いのは神南備山だが、津山城の登城口近くだから、観光客向けに紹介しているのだろう。
津山市皿の津山老人福祉センターにも歌碑がある。佐良山連合町内会が昭和54年に建立した。ここから近いのは笹山である。やはり地域住民の説が正しいのだろうか。
「さら山」は道行く人にお皿に見えたはずだから、出雲街道からよく見えるはずだ。笹山はちょっと遠すぎる。さらに街道を下ってみよう。
津山市宮尾から西北西を見ると、なだらかな稜線の山が見える。手前は嵯峨山で、奥が笹山である。なるほど、これは「久米のさら山」の風景にふさわしい。とすれば、津山藩認定の嵯峨山が正しいように思えるし、笹山も含めて「久米のさら山」と呼んだのかもしれない。宮尾にある宮尾遺跡は久米郡衙跡であり、古代久米の中心地であった。ここから見える皿のようになだらかな山、それが「久米のさら山」だったのであろう。
もう一度、「みまさかや…」の歌に戻ろう。左注に「これは水の尾の御べの美作の国のうた」とある。これについては、皿の歌碑の裏に説明があるので、読んでみよう。
このうたは貞観元年(八五九年)第五十六代清和天皇の即位にあたり新穀の初穂を皇祖及び天地神祇に供え、自らも之を食する行事に美作国英田郡が主基国となり献穀と共に奏した、美作のくにうたで古今和歌集におさめられ、これにより久米のさら山は知られるところとなったのであります。
「水の尾」とは清和天皇、「御べ」とは大嘗祭のことである。今年の大嘗祭で西日本の主基(すき)地方から選ばれたのは京都府である。本日その斎田が南丹市の田に決定したことが発表された。銘柄はキヌヒカリだという。
これが水尾帝こと清和天皇の大嘗祭では、美作国英田郡だったのだ。これは大変おめでたいと、収穫したばかりのコメが献上され、帝の御代を寿ぐ「くにうた」が歌われた。この主基国風俗歌が「みまさかや…」の歌である。
ここで問題が生じる。御代の弥栄をお祝いしているのに、「この恋遊びがバレないようにしようね」とは、実に不謹慎ではないか。そこで津山郷土博物館の「博物館だよりNo.12」と『久米町史』の示唆に従って調べると、国の重要文化財である『催馬楽抄(天治本)』に、次のような歌が見つかった。
美萬左加也 久女乃 久女乃左良也末 左良左良爾 奈與也 左良左良爾 奈與也 左良佐良爾 和加名 和加名波太衣之 與呂川與 末天爾 與呂川與 末天爾
この中の「和加名波太衣之」は「わがなはたえじ」と読む。「立てじ」と「絶えじ」とでは意味が大違いだ。「絶えじ」とすることで、「久米の名は永遠に絶えることはない」と祝祭にふさわしい内容となる。誤って書き写された歌が古今集に収められ、そのまま伝わってきたのだろう。
「久米」や「さら山」の地名は、くにうたで祈念されたとおりに、古代から現在に至るまで伝わってきた。由緒ある地名を「さらさらに」絶やすことなく、「さらさらに」伝えていきたいものである。
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