颯爽とした印象のある新撰組だが、鳥羽・伏見の戦い前においては、殺した敵の数(26人)、討死や病死した隊士の数(10人)よりも、味方に殺された隊士(40人)のほうが多いそうだ。(菊地明『新選組 粛清の組織論』文春新書)
粛清である。局中法度という鉄の掟を破った者は切腹させられた。その掟で禁止されていたのは、反倫理的行為、脱走、不正蓄財、私闘、私刑である。こんなことを許していてはとても組織を維持できないが、違反があったからとして命まで奪う行為は、組織としてのリンチに他ならない。
そんな組織内のドロドロは新撰組に限ったことではなかった。現代の近国を見ても、閉鎖的で独裁的な集団にはよくあることだと分かる。本日は、坂本龍馬の組織で起きた粛清事件について紹介しよう。
長崎市栄町に「近藤昶次郎顕彰碑」がある。坂本龍馬が設立した亀山社中の志士である。
碑に刻まれているのは辞世である。
うき雲の たちおほふなる うきよなり きへなハこれを 可たみともみよ(昶次郎が身重の妻お徳に送りし最後の句)曽孫 川邉篤次郎 書
暗雲が空を覆う世の中だ。私が露と消えたなら、この歌を形見と思ってくれ。そう言い残して切腹した。何があったのか。裏面の説明を読んでみよう。
天保九年三月七日、高知城下水道町の餅菓子屋「大里屋」の伝二と鹿夫婦の間に長男、長次郎として生まれる。二十歳を過ぎた頃、家督を妹の亀に譲り高い志を抱き江戸へ遊学し、苗字帯刀を許され土佐藩士近藤昶次郎となる。
薩長同盟成立の為に奔走する。長州藩主毛利敬親公ならびに薩摩藩主島津久光公にも謁見し、長州藩に対し薩摩名義で軍鑑ユニオン号と小銃を買付け供給、同盟成立に大きく貢献した。その優れた働きに薩摩藩家老小松帯刀から渡英資金援助を受け薩州藩士上杉宗次郎として英国留学へ向け、更なる高い志を抱いていたが叶わず、慶応二年正月二十四日享年二十九歳の生涯をとじた。明治三十一年正五位を賜る。昶次郎は藩の垣根を越え多くの人から愛された。
この地に顕彰碑を建立し幕末の志士近藤昶次郎の功績を称える。
平成二十三年三月二十六日 近藤昶次郎の顕彰碑を建立する会
なかなかの俊才ぶりだ。明治の世を迎えることができたなら、何がしかのことを成し遂げたであろうに。英国留学を前に切腹に至ったのはどうしてだろう。瑞山会『維新土佐勤王史』(大正元)には、次のように記されている。
洋行の挙を社中の者に秘し、将さに明日解纜の英国帆前に便乗し上海に向ひ、一躍して高く海外に雄飛し去らんとするの前日、偶ま風浪順ならず、一夜上陸して「ガラバ」と小宴を催すや、運拙くも忽ち社中の探知する所となれり。皆上杉の告げずして洋行せんとするを烈火の如く激怒し、「咄友を売るの奴、盟約に拠りて直ちに制裁を下すべし」と即決し、此の夜一同小曾根の別荘に会し、数人往きて上杉を拉し来りぬ。先づ沢村等一同は容を改め、「凡そ事大小となく相謀りて之を行ふべきは、社中の盟約にして、此の盟約に背く者は、割腹して其の罪を謝するの明文あり。不幸にして社中に其の人あり。割腹して謝せよ」と。言未だ畢らざるに、上杉俄に色を変ず。沢村再び呼んで曰く、その人は上杉宋次郎君なりと。上杉咄嗟口を開かんとするや、沢村忽ち大喝し、此の期に臨み弁疎は無用なりと。流石に上杉も逃れぬ所と決心し、「如何にも約の如く割腹して諸君に謝し申さん」と。遂に席を設けて自尽したるは、実に慶応二年丙寅正月十四日の夜の事なりき。
上杉宋次郎(宗次郎)こと近藤昶次郎(長次郎)は、社中に相談せず秘かに英国留学を決行しようとしたのである。沢村惣之丞ら社中の者が盟約違反であると厳しくこれを咎め、近藤は切腹して果てたのであった。
これを坂本龍馬はどう見ていたのか。事件当時、龍馬自身は薩長同盟の周旋のため京に赴き不在だったから、断罪を直接指揮したわけではない。事後に知らされた龍馬は、次のような様子だったという。楢崎龍、川田雪山『千里駒後日譚』(明治32)より
長次さんは全く一人で罪を引受けて死んだので、己(をれ)が居つたら殺しはせぬのぢやつたと龍馬が残念がつて居りました。
そうだろう。龍馬なら追い詰めるような人情味のない糾弾はしなかったはずだ。さすがは妻お龍の証言である。私たちのイメージどおりだ。しかし、『維新土佐勤王史』は次のようにも記録している。
坂本にして若し其の際に処せば、敢て之を殺さゞりしならん、洵(まこと)に惜むべきの限にこそ、唯坂本の手記を検するに左の文字あり、
術数有余、而至誠不足
上杉氏の身を亡す所以なり
策略をめぐらし、まごころが足りない。長次郎の自業自得だ、と突き放した言い方をしている。どちらが龍馬の本心なのか。現代の龍馬は偶像化され、度胸があって温和、気高い理想を抱く英雄として描かれる。無情に見捨てるはずがない、と思われがちだが、果たしてそうか。人間だもの。
歴史の評価は難しいもので、善人はよりよく、悪人はよりひどく描かれがちだ。歴史にロマンを求める人々は、実像ではなく理想像を楽しもうとしている。新選組も亀山社中も鉄の規律があったからこそ、激動の時代に組織を維持できたのだ。自由で民主的な居心地のよい組織が歴史を動かし、後世の人々にロマンとして語られることがあるだろうか。
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