大正天皇が主人公の劇があり、平成から令和となっても上演され続けている。劇団チョコレートケーキの『治天ノ君』で、第21回読売演劇大賞(平成25年)の選考委員特別賞を受賞した作品である。
天皇陛下であれ皇太子殿下であれ、人間だから喜びもあれば不満もあろうし、表に出せない苦悩も多いことだろう。そんな大役を担って生まれ育った一人の青年の人生を描いた『治天ノ君』の東京公演は、今月14日まで行われている。
鳥取市東町二丁目に国指定重要文化財の「仁風閣(じんぷうかく)」がある。
この瀟洒な洋風建築は、皇太子嘉仁親王のために建てられたものである。まずは説明板を読んでみよう。
この建物は、明治40年5月、時の皇太子殿下(のちの大正天皇)の山陰行啓に際し、ご宿舎として、もと鳥取藩主池田仲博侯爵によって、扇御殿跡に建てられた。
設計は明治建築最高の傑作である赤坂離宮の設計家として有名な宮廷建築家片山東熊博士によるものと伝えられ、工部大学校での片山東熊の後輩にあたる鳥取市出身の建築家橋本平蔵が補佐し、地元の工匠浜田芳蔵が施工にあたったものであり、フレンチルネッサンス様式を基調とする木造二階建の本格的洋風建築で、中国地方屈指の明治建築として著名である。
櫛型ペディメントを主要なモチーフにした端正な正面のたたずまいに、屋上の棟飾りや階段室のハ角尖頭屋根が変化を与え、背面一・二階吹抜けのベランダは、軽快で美しい構成を示している。
明治40年(1907)の行啓の時程は『山陰道行啓録』(稲吉金太郎、明治40)に詳しい。皇太子殿下は5月18日に鳥取にご到着。午前11時20分に「久松山下の新築御旅館扇邸」にお入りになった。「仁風閣」は随行の東郷平八郎が命名した。
殿下はこの洋館に3泊し、21日にご出発になった。この間、県庁、学校、聯隊等を訪問し、多くの人士を謁見した。『行啓録』には次のように記録されている。
殿下には御慰み物にても詳細供奉員知事等に其種類、起源、流派等御下問あらせられ直ちに御側の者に記録せしめ時には御手づから写真を撮らせらる例えば唱歌ならば其曲名を陳列品に紀念の文字あれば其由来を御下問あらせらるゝ等何くれとなく御下問あらせらるゝやに洩れ承る
生き生きとした青年皇太子の姿が見え、頼もしいかぎりだ。この健康さえ維持されていれば、悲劇的な人物像とはならなかったろうに。病弱だとか暗愚だとか一面的な見方は、大正天皇という人間を理解したことにならない。皇太子時代の行啓も含め、その生涯をまるごと知ることが大切ではないか。昨今何かと話題になる秋篠宮家など、皇族の公務の在り方を考える材料ともなるだろう。
大正天皇はすっかり歴史上の人物となってしまったが、仁風閣は国重文で現役の観光施設である。映画『るろうに剣心』のロケも行われたという。名匠片山東熊が設計した山陰屈指の名建築は、時を経ても古くなることがない。シンメトリーでバランスのよい白亜の建築はフレンチルネサンス様式と呼ばれるが、そう呼ぶことで紳士淑女のお出ましにふさわしい雰囲気がいっそう醸し出されているように思われる。
仁風閣を建てたのは旧鳥取藩主家の侯爵池田仲博で、彼の実父は徳川慶喜である。建築費は四万四千円。さすが明治のセレブは洗練されたセンスもマネーも持っている。しかも高浜虚子の弟子として俳句をたしなんだという。華族に教養は欠かせない。
近ごろ、関電の幹部が高浜町の元助役から3.2億円をもらっていたことが発覚した。名士と呼ばれる人がこのざまだ。同じように巨額の金を動かしても、後世に残したのが原発だったとは。負の遺産として記憶されそうだ。
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