言われて初めて気付くことがある。そういえば、お寺や神社の拝む場所には張り出した屋根がある。雨に濡れなくてすむし、意匠としても美しい。この部分を「向拝」と書いて「こうはい」とも「ごはい」とも読む。尊い神仏を拝む場所だから「御拝」とも書いた。だから「ごはい」という読みが生まれた。
本日は、向拝のない仏堂を訪ねたのでレポートする。
三原市東町三丁目に「極楽寺本堂」がある。県指定の文化財(建造物)である。
本堂前にある説明板を読んで初めて気が付いた。向拝がないのである。すっきりと美しい本堂だが、それでも、県重文という価値が分からない。説明板をよく読んでみよう。
広島県重要文化財
極楽寺本堂
平成九年九月二十九日指定
所在 三原市東町 極楽寺
極楽寺本堂は、江戸時代中期の建造物で、向拝(ごはい)を設けない簡素な造りであり、素朴な構成で統一されている。
浄土宗の本堂は内陣を結界で仕切るのが一般的であるが、その様式が残っているものは少なく、極楽寺本堂は結界と建具が残っており、他に例を見ないものである。この本堂は、古来の素朴な仏堂形式を受け継いだ可能性が高く、県内の仏教建築史上注目される建造物である。
また、背面屋根は錣葺(しころぶき)で、広島県の近世寺社建築の特徴の一つである。
規模・形状
桁行 一三・五二七メートル(七間)
梁行 一三・一一九メートル(五間)
屋根 入母屋造平入本瓦葺(背面錣葺)
建築年次
元文二年(一七三七)頃
三原市教育委員会
向拝がないのは古い建築様式である。価値はそれだけではない。聖域である内陣が結界で明確に仕切られており、その建具が他に例を見ないという。そして写真では見えないが、背面の屋根は錣葺(しころぶき)になっている。簡単に言えば、屋根に段があるということだ。
ここまで書いても、建造物としての価値が理解できたわけでない。それより私が注目したいのは、この寺が法然上人の孫弟子にあたる良忠(記主禅師)を開祖としていることだ。嘉禎三年(一二三七)、九州からの帰途にこの寺を開いたという。
良忠はのちに鎌倉で活動するようになり、日蓮と激しく対立した。良忠らは日蓮を幕府に訴え、日蓮は佐渡流罪の憂目に遭う。日蓮は良忠らを僣聖増上慢(せんしょうぞうじょうまん)、つまり世間から尊敬されているように見えて実は高慢な悪僧だと厳しく糾弾した。
良忠が安芸(のちに現在地に移転)に極楽寺を開いた嘉禎三年、日蓮は16歳、安房で出家して是聖房蓮長と名乗っている。日本の東西で仏教の新たな潮流が起こされようとしていた。極楽寺本堂の前には、宗祖法然の旅立ち像や坂村真民の名句「念ずれば花ひらく」の碑がある。誰もが阿弥陀仏のもとへ導かれる約束の言葉、念仏の法灯を今に伝えている。
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