手塚漫画の名作『火の鳥』ヤマト編で、生き埋めにされたカジカとオグナの泣けるほど切ない会話のあと、殉死を廃止して古墳に埴輪を置くようになったことが紹介されている。人の代わりに土人形を埋めようと提案したのは漫画ではオグナだったが、『日本書紀』の野見宿禰に元ネタがあったと知ったのはずいぶん後のことである。
平成6年に「野見宿禰と相撲」という展覧会が龍野市立歴史文化資料館で開催された。最も印象深かった展示物は、古墳から出土したという装飾付須恵器である。須恵器の上で人形が相撲をとっている。埴輪と野見宿禰と相撲が私の中でつながった。
展示を見終えて、野見宿禰のお墓があるというから山を登った。お墓からは市街地が一望できる。階段に腰かけてサザエさん症候群に陥っていると、「赤とんぼ」のメロディが街から流れてきた。そのときに包まれた寂寥感は、折にふれて今も思い出すことがある。私は二十数年ぶりに野見宿禰を訪ねることにした。
たつの市龍野町北龍野に「野見宿禰神社」が鎮座している。円墳のように見える。
伝説的な人物に墳墓が複数存在するのはよくあること。野見宿禰もそうだが、龍野の宿禰墓には根拠となる文献がある。『播磨国風土記』揖保郡日下部里条には、次のように記されている。
土は中の中なり。立野(たちの)、立野と号(なづ)くる所以(ゆゑ)は、昔、土師(はにし)弩美宿禰(のみのすくね)、出雲の国に往来(かよ)ひて、日下部野に宿り、すなはち病を得て死(みまか)りぬ。その時出雲の国の人来到(きた)り、人衆(ひとびと)を連ね立てて川の礫(こいし)を運び伝ひ上げて、墓山を作りき。故(かれ)、立野と号く。やがてその墓屋を号けて出雲の墓屋と為す。
地味は中の中である。立野、そのように名付けた理由は、むかし埴輪を作った野見宿禰が、出雲に帰ろうとして日下部に泊まっていたものの、病気となり死んでしまった。この時、出雲から人が来て、バケツリレーよろしく川の小石を運び上げて墳墓を築いた。野原に人が立ち並んだので「立野」という。墳墓は「出雲の墓屋」と呼ばれた。
この出雲の墓屋には、明治36年(1903)に建てられた「力士の玉垣」がある。写真は第18代横綱、大砲万右エ門の名が刻まれた親柱である。
大砲(おおづつ)は、明治34年から41年にかけて横綱を張った力士で、身長は194cmとも197cmとも言われている。歴代横綱では曙、双羽黒に次ぐ高身長力士である。明治40年5月場所では9日間全部引き分けという珍妙な記録もある。
また「芸妓の玉垣」もある。親柱に刻まれた横山治作は地元出身の人物、大阪で芸妓置屋などを経営して成功した。屋号は「龍野屋」だったという。住所は「大坂市南區坂町」とあるが、正確には「坂」は「阪」で今の中央区日本橋にあたるようだ。
力士と芸妓に囲まれるとは何とも豪勢で、タニマチですかっ、とツッコミたくが、野見宿禰は力士に便宜を図っていたのではなく、自身が力士だったのだ。取組のようすが『日本書紀』巻第六「垂仁紀」7年7月7日条に記されているので読んでみよう。
七年秋七月己巳朔乙亥、左右(もとこひと)奏して言さく、当麻(たきまの)邑に勇悍士(いさみこはきひと)有り、当麻蹶速(たきまのくゑはや)と曰ふ。 其の人と為り強力(ちからこはく)して、以て能く角を毀(か)き鉤(かぎ)を申(の)ぶ。恒に衆中(ひと)に語りて曰く、四方(よも)に求めむに、豈我が力に比(なら)ぶ者有らんや。何(いか)で強力者(ちからこはきもの)に遇ひて、死生(しにいくること)を期(い)はず、 頓(ひたぶる)に争力(ちからくらべ)することを得む。天皇聞きて群卿に詔して曰く、朕聞く、当麻蹶速は天下の力士(ちからひと)なり。 若し此に比ぶ人有るか。一(ひとり)の臣進みて言さく、臣聞く、出雲国に勇士(いさみひと)有(はべ)り、野見宿禰(のみのすくね)と曰ふ。試に是の人を召して蹶速に当(あは)せむと欲(おも)ふ。 即日(そのひ)、倭直の祖長尾市を遣して、野見宿禰を喚す。是に野見宿禰出雲より至(まういた)れり。則ち当麻蹶速と野見宿禰とに捔力(すまひと)らしむ。二人相対ひて立ち、各足を挙げて相蹶(ふ)む。則ち当麻蹶速の脇骨(かたはらほね)を蹶折(ふみさ)く。亦其の腰を蹈折(ふみくじ)きて殺しつ。故れ当麻蹶速の地を奪(と)りて悉に野見宿禰に賜ふ。是れ其の邑に腰折田有る縁なり。野見宿禰乃ち留り仕へまつる。
垂仁天皇七年七月七日、側近の者らが天皇に申し上げた。
「当麻村に当麻蹶速という勇猛な男がおります。たいへん力が強く、牛の角をへし折り、曲がっている鉤はまっすぐにしてしまうほどです。日頃から言っているのは『いろいろ探したが、俺の力にならぶ者はいないようだ。なんとかして強いやつを見つけ、死んでもいいから思い切り力くらべをしたいものだ。』ということです。」
天皇は群臣に聞いた。
「当麻蹶速が最強と申すか。これに匹敵する者はおらんのか。」
ひとりの家臣が進み出て言った。
「出雲に野見宿禰という勇者がいると聞いております。ためしにこの者を召し出して、蹶速と戦わせてはいかがでしょう。」
さっそく市磯長尾市(いちしのながおち)に命じて、野見宿禰を呼び出すこととした。出雲から宿禰が到着すると、蹶速と相撲を取らせた。二人は向かい合って蹴り合っていたが、ついに宿禰が蹶速のあばら骨と腰骨を砕いて殺してしまった。そこで蹶速の領地はすべて宿禰に与えられた。当麻村に腰折田があるゆえんである。宿禰は天皇に仕えることとなった。
桜井市大字穴師の相撲神社は両者が相撲を取った「相撲発祥の地」というし、香芝市磯壁六丁目には「腰折田伝承地」がある。そして本日紹介したのは、相撲の神様、野見宿禰のお墓であった。驚くのは、宿禰神様、対戦相手を蹴り殺しているということだ。当麻蹶速は「死生を期はず」と公言していたから、問題なしということか。
公正公平そして安全に試合ができるようルールが整備された今のスポーツのありがたさがよく分かる。今日から初場所が始まった。新関脇朝乃山や大関貴景勝は、横綱白鵬の牙城を崩せるのか。三関取ともに白星スタートだった。どうか怪我のないよう思いっ切りぶつかってほしい。
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