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中臣鎌足といえば中大兄皇子の親友で、ともに大化の改新を成し遂げ、藤原氏の祖先となった人物として有名だ。古代史の重要人物で皇子の補佐役という以上にイメージを持ち合わせていなかったので、昨年、宝塚星組が歌劇にしたと聞いた時には驚いた。『鎌足−夢のまほろば、大和し美し−』である。若き日の鎌足の恋、よきライバル入鹿との交流、そして二人を待ち受ける運命…観てはいないが、波瀾万丈のストーリーが展開されているようだ。
昨年は藤原鎌足没後1350年にあたり、再評価の好機となった。前年の平成30年には「藤原鎌足と阿武山古墳」という秀逸な展覧会が高槻市で開催された。鎌足の事績を考古学から確認するとともに、大織冠信仰という宗教的側面からも鎌足像を明らかにする意欲的な展示であった。観覧したあと、展示で紹介のあった神社に立ち寄ったのでレポートしよう。
茨木市西安威2丁目に「大織冠神社」が鎮座している。大織冠とは大化の改新で制定された冠位十三階の最高位の冠で、史上授けられたのはただひとり、藤原鎌足のみである。だから、大織冠は鎌足の代名詞になっている。
標柱に神社名を揮毫したのは「春日大社宮司三條實春」、藤原北家閑院流の三條公爵家のお方である。その向こうに見える鳥居を文政七年(1824)に寄進したのは「深津氏藤原正保」、この地域を所領としていた幕府の旗本である。『寛政重修諸家譜』によれば、藤原南家、藤原為憲の後胤を称したという。
どのような神社かと思って階段をのぼると…
なんとそこは「将軍塚」という古墳であった。考古学上の名称は「将軍山1号墳」という。傍らの標柱には「大織冠鎌足公古廟」と刻まれ、藤原鎌足の古い墓だとされている。側面には「裔孫従一位勲一等藤原朝臣道孝」と刻まれている。道孝は藤原北家の五摂家の一つ九条公爵家のお方で、最後の藤氏長者でもあった。説明板を読んでみよう。
平安中期の頃から、藤原鎌足公の墓所は、初め「摂津の安威(あい)にあったが、後に大和多武峰(とうのみね)に改葬された」との説があり、それが江戸時代になって、この塚をあてるようになった。そのために鳥居を建て、石碑を造り、石室内に祠をつくって崇拝し、毎年十月十六日には、京都の九条家から使者が来て、反物二千匹を持参し、お祭りをされていた。
考古学上からは、山頂を利用して造られた円墳で、南向きの横穴式石室を有するものである。石室は、羨道(せんどう)が玄室の片方によったいわゆる片袖式(かたそでしき)のもので、丸みのある花崗岩を積み上げている。玄室の長さは四・五メートル、幅一・七一メートル、高さ二・四メートルで、五枚の天井石がのせられている。
造られた時期は、古墳時代後期(六世紀後半)の頃であるが、早くから開口されたので副葬品については何もわかっていません。
茨木市教育委員会
九条家からは道孝自身が来訪することもあったようだ。ただし、鎌足の生没年が西暦で614~669だから、6世紀後半築造の将軍塚古墳は鎌足の墓でない。それでも九条家が祭祀を続けたのは、「墓所は初め摂津の安威にあった」との説に基づくものだろう。いまの談山(たんざん)神社の由緒を記した『多武峯(とうのみね)略記』で原文を確認しよう。
荷西記云。定慧和尚。天智天皇治天下丁卯生年二十三入唐。天武天皇治天下戊寅帰朝。謁弟右大臣問云。大織冠御墓処何地哉。答曰。摂津国嶋下郡阿威山也。於是和尚具語先公契約。即引率二十五人。参阿威山墓所。掘取遺骸。手自懸頚。即落涙言。吾是天万豊日天皇太子。宿世之契為陶家子云々。故役人荷土共登談峯。安置遺骸於十三重塔之底矣。
『荷西記』という記録によれば、鎌足公の長男とされる定恵(じょうえ)和尚は、天智天皇六年(667)に23歳で唐に渡り、天武天皇七年(678)に帰国した。弟の右大臣不比等に会い「父君のお墓はどこにあるんだ?」と尋ねた。不比等は「摂津国島下郡の阿威山ですよ」と答えた。和尚は「留学中に父君が談山に現れる夢を見た。父君は『私はいま天に昇った。お前はこの地に寺や塔を建て仏道に励むがよい。そうすれば私がその塔に降臨し子孫を守り仏法を広めようぞ』とおっしゃったんだ」と聞かせた。そして25人を引き連れて阿威山の墓所に参り、遺骸を掘り出し、首に手をかけ涙して、こう言った。「私は孝徳天皇の皇子であり、前世からの因縁により人々を導くのである」そこで役人は資材を談山に運んで、遺骸を十三重塔の底に安置した。
鎌足の遺骸が最初にあったのは、摂津国島下郡の阿威山、すなわち本日紹介の将軍塚とされていた。それゆえ「古廟」なのである。談山神社の十三重塔は鎌足の墓塔だといわれ、神社からさらに奥の御破裂山の頂には鎌足の墓所がある。
ところが、昭和9年に大発見があった。冒頭で紹介した展覧会のタイトルにある「阿武山(あぶやま)古墳」である。所在地は高槻市大字奈佐原だが、すぐ隣は茨木市大字安威である。この古墳から藤原鎌足と思しき遺骸と大織冠に使われたと推定される金糸が見つかった。
阿武山古墳の被葬者を鎌足とするなら、安威から多武峰に移葬されたという話はどうなるのか。また『(藤氏)家傳』という史料には「粤以庚午年閏九月六日、火葬於山階之精舎」とあり、初めに葬られたのは京都市山科区だという。『日本書紀』巻第廿七の天智八年十月十六日条には「廼(すなわ)ち山の南に殯(もがり)す」とあるが、どこの山かは分からない。
ということで、鎌足公の墓所については、考古学的には阿武山古墳が有力だが、文献史学では多武峰に改葬されたと考えるのが自然だ。先の展覧会はもちろん阿武山古墳推しで、復元された大織冠からは説得力を感じる。ただし昭和9年の発掘調査においては「余りに科学的な調査は貴人に対する冒涜である」との声が出て、調査は最小限度にとどめられ現在に至っているという。
いずれにしても墓所の論争に、本日紹介の将軍塚が参入することは、おそらくないのではないか。この古墳は鎌足の「古廟」ですらないだろう。初めに墓所があったとされた安威で、「山の南」すなわち南向きの古墳を探した結果、将軍塚が見つかったのだろう。それまで安らかに眠っていた古墳の本当の主は、最高位の貴人に祭り上げられて苦笑いするしかなかったに違いない。
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