「有元さん」は岡山県北の美作東部ではよく見かける名字で、多くの方が各方面で活躍していらっしゃる。かつてこの地域には、菅原道真の子孫と称する美作菅家党という武士団がいた。有元、広戸、福光、植月、原田、鷹取、江見の7氏は菅家七党と呼ばれ、有元氏はその惣領格であった。地域に根差した武士団は、中央や周囲の強大な勢力とどのように関わったのだろうか。
岡山県勝田郡奈義町中島東の有元集会所のあたりに「有元城跡」がある。町の史跡に指定されている。お花畑が美しくて城跡には思えないが、茂みへ入っていくと土塁が確認できる。
戦国時代には珍しい平城で、戦時に籠城するというよりも平時の館のように思われる。説明板を読んでみよう。
有元城(中島城・西坪城)は平城で東西南北に六十メートル以上に広がっており、周りは深い堀と土塁で囲まれ北から、主郭・二郭・三郭と配置されていたと考えられている。
現在では江戸時代後期以降の開墾により、城の東部の大部分を失っている。
また、西側には南北に一キロ以上に及ぶ堀切状の遺構が確認できる。
この城の城主は、元弘の乱(一三三三)で活躍した有元佐弘(すけひろ)の子孫、有元佐氏(すけうじ)で天文元年(一五三二)尼子経久の美作侵攻により、落城したと伝わっている。
現在地も開墾された、城郭の一部と考えられている。
後世の改変により元の縄張が分かりにくくなっている。ここでは城主の有元氏に着目することとしよう。元弘の乱で活躍した有元佐弘については、本ブログ記事「美作を代表する武士団の忠義」で紹介した。このことも含めて『作陽誌(東作誌)』の記述でおさらいしよう。(勝北郡小吉野庄中島村東分の項より)
中島城は有元筑前守佐高(太平記に六郎と有)其子菅四郎佐弘代真加部河内山に移(元弘三年癸酉四月三日京都猪熊合戦に討死せり)其弟五郎佐光中島の城主とす(兄佐弘と共に討死す)佐弘四代の孫遠江守佐氏再中島の城主として威を振ふ所、福本和泉守の為に攻落とされたり或は云天文年中尼子晴久当国を切取るとき尼子方の先鋒三好安芸守乱入してその属将福本和泉守の為に討ると云々
『太平記』に登場した有元佐弘は、城を弟佐光に譲って河内山城に移ったという。その後しばらくは不詳で、四代の孫佐氏の代になって記録に登場する。『美作古城記』でも確かめよう。(小吉野庄中島村西坪ノ城の項より)
文亀三年癸亥有元遠江守佐氏河内山の城を新免伊賀守貞重に責抜れ当城へ来って在城しけるを天文元年尼子伊予守経久の部将笹尾の城主福本和泉守不意に起って攻立ければ佐氏敗北して下町川村迄落延けれ共終に福本が為に谷峪にて討死せり
文亀三年(1503)、東作のライバル新免氏に河内山城を追い出された有元佐氏は、有元城(中島城・西坪城)で復活した。ところが天文元年(1532)に至り、尼子氏に味方した福本和泉守の為に討死したという。福本はすぐ近くの笹尾城を本拠とした菅家党で、かつては福光を名乗っていたらしい。
菅家党が活躍の舞台とした東作の地は、尼子氏に続いて浦上氏、毛利氏、宇喜多氏と戦国大名の草刈場となった。嵐に翻弄されながらも菅家党は、地にしっかりと根を張っていく。菅家七党の子孫と称する家はこのあたりにたくさんあるようだ。
美作菅家の偽系図の実状!
美作菅家党という武士団がいた。有元、広戸、福光、植月、原田、鷹取、江見の7氏は菅家七党と呼ばれ、
原田氏の祖は平忠常で平氏です。
投稿情報: 中村 | 2021/05/01 12:18
ご教示いただきまして誠にありがとうございます。たいへん勉強になります。
投稿情報: 玉山 | 2021/01/26 17:43
美作の原田氏は菅原道真の子孫ではありません。尚、有元氏も道真の子孫ではありません。
投稿情報: 原田 | 2021/01/26 12:28