ストーンヘンジなら子どものころから知っていた。もちろん実際に見たことはないが、世界の謎と不思議みたいな子ども向けの本で読んだことがある。あのような巨岩をどこから運び、どのようにして組み立てたのか。いったい何のために。
そんな多くの謎の一つが、この夏に解明されたという。巨石はストーンヘンジから24キロほど離れたウェストウッズと呼ばれる森林地帯から運び込まれた、というのだ。これでスッキリ、というわけではない。どうやって、なぜ、と謎はますます深まるばかりだ。
本日はストーンヘンジには遥か及ばないが、伝説の巨石を4つ紹介しよう。
津山市油木上の山中に「いねくいいし(禾食石)」がある。どうみても怪物だ。
車道脇に「禾食石」の表示があるから入口は分かったが、竹藪の竹が倒れて行く手を阻み、岩に向かう細道に気付かず通り過ぎ、ちょっとしたアドベンチャーになってしまった。目印は散在する似たような石と平坦地で、そこから右手の斜面を登ればよい。「いねくい」という名称にもおどろおどろしさがある。どのような由来があるのか。『久米町史』下巻「伝説」では、次のように説明されている。
大字油木上字大原に七森神社があり、此のお宮の境内に変った石がある。
其の石は高さが一丈五尺(約四・五五メートル)、周二丈(約六・○六メートル)で、石の頭に北に向って口をあけた様な部分がある。
昔、出雲の国の或る郡で毎年稲が稔らず郷民が大変難儀していた。通りかゝった素性のわからない僧の言うには、美作の国倭文の庄に石神がある。其の石神がいつの年もやって来ては稲を食うから毎年米がとれないのだ。だから其の石神を除けば米はとれるようになる。と
そこで出雲の郷人多数が石神をさがしてやってきて遂に七森神社の異石を探しあてた。「此の石にちがいあるまい」として中の一人が大きな斧をふるって石を撃つとそのとたんに目がくらんでそこに仆れて死んでしまい、岩の根元からは紫の血が流れ出た、と見るまに一天俄かにかき曇り、あたり一面真暗となり、電光雷鳴物凄く篠突く大雨となった。
恐れおのゝいた出雲の人達はいそいで逃げ帰ったと言うことであり、其の時の穿堀の痕は今も残っていると謂われている。
やはり尋常ではなかった。それにしても不思議なのは、この怪物はなぜ出雲まで行って稲を喰い荒らしていたのか、仕返しに来た出雲の人々がなぜ返り討ちにあったのか、である。この地域は出雲街道で出雲と結ばれているとはいえ、あまりにも遠く関係が薄いように思えるが、どうなのだろう。
津山市里公文に「つぶて石」がある。けっこう形がよい。
「つぶて」は漢字で書くと「礫」であり、小さい石を意味する。しかし、この石は小さくない。どのような由来があるのか、『久米町史』下巻「伝説」を読んでみよう。
大字里公文の字森岡の坂の下の田の畦にあり、周囲一丈四尺八寸(約四・四八メートル)の大きな石である。
昔、大崎の軍勢が平福城(高津神社の第一の鳥居の近くにあった中世の城で、毛利氏の居城であった。)を攻めた時、城中からつぶての様に投げつけた石である。
ということであり、又、武蔵坊弁慶の投げた石であるとも言う。
『西作誌』中巻久米郡北分山川部倭文庄「円宗寺山」の項に、毛利左近亮が村内に円宗寺城と平福営を構え、苫西郡の目崎城主と争い左近は敗死した、と記されている。目崎城は鏡野町下原と津山市久米地区との境界にあり、築城したのは大崎美濃守頼末と伝わっているので、「大崎の軍勢が平福城を攻めた」というのも間違いではないようだ。
この戦いで「城中からつぶての様に投げつけた石」とのことだが、これほどの大きな石であればびくともしないだろう。弁慶が投げたという言い伝えのほうが、むしろもっともらしく聞こえる。
津山市里公文上に「ごぜ石(盲女石)」がある。
吉本実憂主演で『瞽女GOZE』という映画が公開されている。目の見えない女性旅芸人の成長物語である。江戸時代には全国的に活動し、伝説の普及にも一役買っていたようだから、この細い道を「ごぜ」が歩いていたのかもしれない。どのような物語があるのか、『久米町史』下巻「伝説」を読んでみよう。
大字里公文字小谷にあって高さ七尺(約二・一二メートル)、周囲五丈七寸(約一五・三六メートル)で頂上は平坦な巨岩である。
天明年間一人の盲女がこゝを通り、此の岩の下のところで休んでいたところ、突然上の岸から抜けて落ちてきた此の岩のため盲女はその下敷きになっている。
山側の岩壁にはクラックがたくさんあり、「抜けて落ちてきた」なんてこともあろうかと思わせる。桜の樹の下にではなく、巨岩の下には死体が埋まっているということなのか。
津山市油木北に「ださあ石(陀賽石)」がある。
「陀賽」が読めないし、「ださあ」とは想像すらできない。どのような岩のか、『久米町史』下巻「伝説」を読んでみよう。
大字油木北字上田にある岩で、本来はださあ石であるが後「陀賽石」の漢字を宛てたゝめにださいいしと言いたくなるのである。岩は此の土地の人が祠をたて、神石として崇敬している岩である。
此の神石は周囲八間(約一四・五五メートル)、高さ三間(約五・四五メートル)である。これより一町(約一〇九・〇九メートル)下の道端に突き出ている部分があり、土地の人はこれを岩根と言っている。
昔、一人の男が石鑿をあてたところ紫色の血が迸(ほとばし)ったということで、今も穿堀の痕が残っている。此の地の地名もださあである。
最初に紹介した「禾食石」も傷つけたら「紫の血」が流れ出ている。特色のある岩を4つ紹介したが、3つまでが血が流れたり人が死んだりと尋常ではない状況となっている。実際にあったというよりも、そうかもしれないと思わせる姿かたちをしていたのだろう。そんな石に人々は霊力を感じ、崇敬の念を抱くのだ。石は生きている。
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