あけましておめでとうございます。令和三年がみなさまにとって良い年となるようお祈りするとともに、コロナ禍の一日も早い収束を願っております。気持ちを強く持って生き抜きましょう。よろしくお願いいたします。
文永八年(1271)月十一月一日、日蓮聖人は佐渡の塚原三昧堂に入られ、約2年半に及ぶ佐渡法難が始まった。それから今年はちょうど750年となる。来年は聖人の御生誕800年ということで、関係寺院では慶祝ムードが高まっているようだ。
日蓮聖人の処罰を主導したのは侍所所司の平頼綱(たいらのよりつな)、聖人が「天下の棟梁」と目した実力者である。念仏を擁護する頼綱が、「念仏無間」つまり念仏は無間地獄への道だと批判する聖人に、悪感情を抱いたのは想像に難くない。
権勢を誇る頼綱とて私情で聖人を罰したわけでない。法的根拠の一つは『御成敗式目』第十二条である。
一、悪口咎事
右闘殺之基起自悪口、其重者被処流罪、其軽者可被召籠也、問注之時吐悪口、則可被付論所於敵人、又論所事無其理者、可被没收他所領、若無所帯者、可処流罪也
他人の名誉を傷つける罪について
闘争殺人の原因は名誉棄損にあり、重大な場合は流罪に処し、軽微な場合は閉門とする。裁判の際にも名誉を傷つけるならば、争う領地は相手方のものとなる。また、土地争いにおいて正当な理由がない者は、他の領地も没収する。もし領地がないならば流罪とする。
日蓮聖人の場合は、裁判においても自説を曲げず、悪口(あっこう)を吐いたことが咎とされた。もちろん聖人にしてみれば悪口どころか正論中の正論であった。裁判でもう一つ問題とされたのは、建長二年の帯刀禁止令に反していたことである。『吾妻鏡』巻四十建長二年(1250)四月廿日条に次のように記されている。
仰保検断奉行人及地奉行、凡卑之輩、太刀并諸人夜行之時、帯弓箭事、可令停止之由、〈云云〉
侍所配下で鎌倉市中の治安維持にあたる保検断奉行と地奉行に仰せがあった。一般の者の太刀の所持ならびにすべての者が夜間に弓矢を持ち歩くことを禁じるとのことだ。
念仏側から日蓮教団が武器を所持しているとの告発があったため裁判に至っているのだが、聖人は次のように反論している。「行敏訴状御会通」より
涅槃経に云く天台云く章安云く妙楽云く、法華経守護の為の弓箭兵杖は仏法の定れる法なり、例せば国王守護の為に刀杖を集むるが如し。
涅槃経に示され、天台大師、章安大師、妙楽大師という天台宗の高僧が説くように、法華経を守るための武器の所持は仏法の認めるところだ。例えるなら国王を守るために武器を集めるようなものだ。
平頼綱は妥協しない聖人に対して流罪の判決を下したものの、それは表向きのことで、実際には龍口刑場で首をはねようとした。これは「日蓮聖人を救った奇跡」で紹介した。救われた聖人は判決通り佐渡配流となるのだが、この救いの背景には執権北条時宗夫人の出産という慶事があったという。取り計らったのは幕府側で活動しながらも、聖人に帰依していた比企大学三郎(比企氏の乱で滅んだ能員の遺児)であった。
前置きがずいぶんと長くなった。こうして配流となった聖人は10月28日に佐渡に上陸、翌月1日に塚原に入った。いよいよ本日の史跡の紹介に入ろう。
佐渡市新穂大野に塚原山根本寺があり、その境内に「三昧堂」と「戒壇塚」が隣り合わせに位置する。写真は平成7年に訪れた時のもので、「三昧堂」の屋根は現在、瓦葺になっているようだ。
言い伝えでは、聖人の入られた塚原三昧堂は「戒壇塚」の場所にあったという。当時はどのような有様だったのか。聖人が身延山で回想して書いた手紙『種種御振舞御書』には、次のように記されている。
十一月一日に六郎左衛門が家のうしろみの家より塚原と申す山野の中に、洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし。上は板間あはず四壁はあばらに、雪ふりつもりて消ゆる事なし。かゝる所に、敷皮(しきがわ)打ち敷き蓑うちきて、夜をあかし日をくらす。夜は雪雹(ゆきあられ)・雷電(いなずま)ひまなし。昼は日の光もさゝせ給はず。心細かるべきすまゐなり。
六郎左衛門は佐渡の守護代であった本間重連(ほんましげつら)である。「六郎左衛門が家のうしろみの家より」の箇所は「六郎左衛門が家のうしろ」とする伝本もある。守護代の館の世話人の家から塚原に移ったのか、守護代の館の後ろにある塚原に移ったのか。
本間氏の館は佐渡市畑野にある「熊野神社遺蹟」と刻まれた石碑のあたりにあったとされる。ここから根本寺までは少々距離がある。これをどう考えるか。磯部欣三『佐渡歴史散歩』創元社(昭和47年)には、次のような指摘がある。
新穂村の塚原山・根本寺は、江戸時代のはじめ、そこが日蓮の住んだ「塚原」であったという伝承によって建立される。が、この日蓮の手紙だと、重連の館を、東へ三キロはなれた根本寺まで持っていかないといけないのでムリが出てくる。日蓮は「里より遥かにへだてられる野と山の中」「かるかや(刈萱)おひしげる野中」と、しきりと「野」を強調している。「六郎左衛門が家のうしろ」と書いているのだから重連の館があった下畑から、となりの目黒町にかけての「野中」に日蓮の配所を求める必要が出てくる。
塚原が「家のうしろ」であれば根本寺は遠いが、塚原に「うしろみの家より」移ったのであれば、根本寺までの距離は問題にならないかもしれない。いずれにしろ佐渡のまほろば、国仲平野のどこかである。今ごろは当時と同じく「雪ふりつもりて消ゆる事なし」の状態にちがいない。
根本寺の境内に「犬塚」がある。犬公方のお犬様ではあるまいし、犬が丁重に葬られているとはどういうことだろうか。本間守拙『日蓮の佐渡越後―遺跡巡りの旅―』新潟日報事業社の塚原山根本寺の項に、次のように記されている。
三昧堂の東、戒壇塚に対面して犬塚が築かれ供養の五輪塔が建つ。聖人の身には怨敵の危厄がつねにつきまとっていた。食中に毒を交えて供養したのを知り犬に与えたところ、即座に死んだ身代わりの犬を弔って築いたものという。
身代わりとなった犬には気の毒なことだったが、その後の日蓮教団の発展を考えれば、心より感謝し合掌すべき塚であろう。私たちも日頃、魚、鶏、豚、牛とたくさんの命をいただいて生かされている。
昨秋、根本寺では記念の法会が営まれ、私もささやかながら塔婆を供養させていただいた。こうした機会があるだけでも喜ばしいのに、もったいなくもお礼にと「日蓮米」を送っていただいた。聖人が踏んだ同じ土で育ったお米をいただき、750年前の苦難と命を救った義犬に思いを馳せながら、今年の始まりとしたい。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。