泣ける万葉歌の一つに「家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る」がある。家ならちゃんとした器によそうご飯も、旅の途中だから椎の木の葉っぱに盛り付けている。
時は斉明四年(658)、孝徳天皇の一人息子有間皇子が謀反の嫌疑で捕らえられ、斉明天皇と皇太子中大兄皇子が行幸している白浜温泉へと護送された。尋問された有間皇子は…。『日本書紀』巻第二十六「斉明四年十一月九日条」である。
於是皇太子親問有間皇子曰、何故謀反。答曰、天与赤兄知、吾全不解。
「なぜ謀反しようとしたのか。」「天と赤兄が知っている。私は何も知らない。」赤兄は有間皇子を陥れたとされる蘇我赤兄(そがのあかえ)である。皇子は都へ送還される途中、海南市藤白で絞殺された。
冒頭で紹介した皇子の歌に「旅にしあれば」とあるが、実のところ死出の旅であった。藤白には「有間皇子の墓」もあるという。本日は紀州ではなく、山陰但馬の地から皇子ゆかりの伝説をお届けする。
兵庫県美方郡香美町香住区香住の香住神社の裏に「有間皇子夫婦塚」と「三鈷(さんこ)の松」がある。
松については神社の入口に説明板がある。内容を確認しておこう。
「三鈷の松」は、和歌山県の高野山真言宗総本山金剛峯寺で縁起物として親しまれている貴重品だが、月岡公園に植えられた経緯などは不明。1955年(昭和30年)頃、7世紀半ばのものと見られる古墳が見つかった。高貴な人物の墓があったことから「三鈷の松」が植えられた可能性がある。特徴は、松の葉が3本で、長さも普通の松葉の2倍ほどあり球果には鋭い棘がある。
中国では神聖な木として王宮などに植栽されており、名前は弘法大師の伝説に由来する。真言密教を布教しようと、法具の「三鈷杵(さんこしょう)」を唐の国から投げたところ、高野山の松に引っかかっており、その松葉が「三鈷杵」の突起と同じく3本だったことから名づけられたと言い伝えられている。
ここには有間皇子の名はないが、「高貴な人物」が登場する。三鈷の松近くに「有間皇子夫婦塚」の碑が建てられていることから、7世紀半ばの古墳の主は有間皇子とみなされているのだろう。
これはおそらく史実ではない。しかし、蒔かぬ種は生えぬのとおり、何らかの種があるのだろう。そこで、江戸中期に出石藩の儒者桜井良翰(りょうかん)が著した地誌『但馬考』をひもといてみると、次の記事が見つかった。『但馬考』巻之十人物「日下部」の項より
武家系図曰孝徳天皇第一宮有馬皇子謀反す。紀州藤代坂にてこれを討つ。年十九。その弟表米宮(へうまいのみや)も其に党せりとて、但馬国に流され玉ふ。天智天皇御宇、異賊来侵す。是に於て、表米に日下部(くさかべ)の姓を賜て大将軍とし、異賊を退治せしむ。一戦に功なりしかば、恩賞として養父郡の大領となる。時に難波朝廷戊申歳也。在任三年、庚戌歳死す。
なんと有間皇子の弟表米宮が但馬に流されたという。これが有間皇子伝説の源流だろうか。『但馬考』では、上記に続いて次のように冷静に考察している。
表米の子孫は八木氏や朝倉氏となったというが、『日本書紀』には表米の名は見えず『皇胤紹運録』にもない。日下部氏は開化天皇の子彦座王の後裔だと『新撰姓氏録』にあり、但馬国造、後には郡司として活躍した。表米は古書に記されていないだけでなく、皇子が郡司となった例もない。
ならば表米という謎の皇子を、誰が考え出したのであろうか。越前朝倉氏の興亡を記した軍記物語『朝倉始末記』の冒頭には、次のように記されている。
倩(つらつら)往古を考ふるに孝徳天皇の皇子表米親王と申せしは曩歳異賊襲来の時其の子荒島の王と共に詔を蒙て但馬の海に出一戦敵を靡(なび)けて帰京の時叡感殊に甚く但馬の国朝倉郡大領として始て日下部の姓をぞ賜りける。
孝徳天皇の皇子である表米親王は、おそらく朝倉氏の家中で造形された人物なのだろう。そして、珍しい松の存在や終末期古墳の発見が重なって、兄である有間皇子が登場することになったのだ。
伝説の背景には「盤代(いはしろ)の浜松が枝(え)を引き結び真幸(まさき)くあらばまた還り見む」と自らの無事を祈りながら、無情にも死を賜ることとなった皇子への同情があったに違いない。コロナ禍の昨今、誰もが今日一日の幸せを祈りながら家を出ていく。皇子の絶唱は私たちの思いを代弁しているのだ。
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