信長の成功の背景には「湖城ネットワーク」があったという。琵琶湖の周囲に築かれた四つの城、すなわち本拠の安土城、光秀の坂本城、信澄の大溝城、秀吉の長浜城である。近江を制する者は天下を制すと言われるように、琵琶湖の制海権を押さえることで、京への安全な移動や輸送を可能としたのである。
岡山市南区郡と玉野市八浜町見石の境に「怒塚(いかつか)城跡」がある。怒塚山332mの頂上にあり、削平地は広い。写真正面に光る鴨川の向こうに常山307mが見えている。
児島湾干拓地から南方を眺めれば、児島湾三大山城を望むことができる。もっとも有名なのは常山城。児島富士と称される美しい山容が特徴で、女軍の奮戦は戦国悲話として今も語り継がれている。常山の左側に扁平なM字型をした山があり、東西の峰それぞれに砦が築かれている。麦飯山城という。軍記物では毛利の大軍が押し寄せたことになっているが疑問視されている。標高は232mである。
そしてもう一つが、児島最高峰の金甲山の手前に屹立する山、怒塚(いかつか)山の怒塚城である。特に児島湾三大山城という呼称があるわけではないが、標高の高い城跡で、相互に一望することができる。
主郭の背後の尾根筋は金甲山とつながっているが、二条の堀切で遮断されている。元文二年(1737)成立の地誌『備陽国誌』に、次のように記載されている。
いか塚山城 碁石村 (中略) 以上五城主不詳
ところが『玉野市史』はこの城について、次のように言及している。
宇多見の谷を東北に登ると、金甲山の尾根続きに怒塚山があり、この地が古くからの城跡であったことはその遺物からも、遺構からも知ることができる。伝説によるとこの城の城主は宇多見におり、家老三人のうち一人は宇多見、一人は碁石、一人は郡に根小屋を持っていたので、落城後もそれぞれ、その村も帰農したといわれている。本姓三宅であったというから三宅三郎高徳の一族で、代々四郎を名乗った三宅家ではあるまいか、とにかく怒塚城主としてこの附近の豪族であったことには間違いなかろう。
宇多見は地理院地図では歌見と表記され、碁石と合わせて八浜町見石という行政地名となっている。城としては籠城して戦うような造りではないから、児島北岸の動きを把握する望楼としての役割があったのだろう。
可能性として考えられるのは、天正十年(1582)二月に行われた八浜合戦。毛利氏と宇喜多氏は備前北西部の虎倉城をめぐって激しく争っていたが、前年には毛利方の手に落ちていた。勢力挽回を狙う宇喜多氏は児島北岸小串城の高畠氏を調略する。これに危機感を感じた毛利氏は穂田元清を大将として、常山城への増派、麦飯山城の築城を行う。対する宇喜多氏は八浜にある両児山に精巧な城を築き、児島奪取の橋頭堡とした。こうして両軍が激突したのが八浜合戦であった。
児島を支配下に置く毛利氏は怒塚城を手に入れ、児島北岸ネットワークの一拠点としたのではないか。そこに児島湾の制海権を持つ宇喜多勢が、麦飯山と怒塚山との間に両児山城を築いてネットワークを寸断しようとしたのだろう。
八浜合戦では、宇喜多方の大将宇喜多基家が討死し、両児山城は毛利方に包囲されるなど、宇喜多勢は劣勢に立たされていたが、秀吉率いる織田勢が備前入りしたと聞いた毛利勢は備中辛川城に引き上げていった。備中高松城での頂上決戦はもうすぐである。
毛利氏は当時、吉田郡山城を本拠としていた。そこから遥々と、岡山に睨みを利かせる児島の地まで遠征したのだ。さすが中国の覇者、毛利氏。秀吉がいなかったら宇喜多氏の運命はどうなっていたであろうか。干拓地から眺める児島湾三大山城は毛利大軍団の最前線だったのだ。
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