衆院選が近付き、各地で立候補表明が相次いでいる。誰でも立候補できる民主的な選挙制度なのだが、国会議員が家業のような世襲政治家も多いようだ。立候補者は地盤看板を引き継ぐことができるし、選ぶ側も「あの人の息子さんならいんじゃね」という具合だ。
この風潮を打破するかと期待されたのが、たたき上げの菅首相だ。しかも無派閥で首相の座を射止めるとは大したもんだ、と期待された。だが、いざという時に生死を共にする派閥という仲間がいないことで窮地に追い込まれ、河野ワクチン相の要職起用で局面を打開しようとしたところ、ギャングのような派閥会長から「おまえと一緒に、河野の将来まで沈めるわけにいかねえだろ」と引導を渡されてしまった。
その次期首相として国民的に最有力の河野氏も世襲議員の一人。世襲であれたたき上げであれ、国会と国民の架け橋となって働く覚悟はお持ちのはずだ。それは国民の願いを届ける夢の架け橋か、それとも架けても架けても壊される鬼の架け橋か。
丹波市柏原町上小倉(かいばらちょうかみおぐら)に「鬼の架橋展望所」がある。
国道176号を快適に飛ばすのはよいが、大切なものを見失うことがある。この展望所もそうだ。兵庫県観光百選でもある天下の奇岩を見るために、ここに車を停める価値は保証しよう。こんなふうに見える。
丹波市柏原町上小倉と丹波篠山市追入(おいれ)の境に「鬼の架け橋」がある。一足飛びで近付いてみよう。
それっ!
すたっ!
実際には、この先のトンネルを越え登山口からかなり歩いた。中世の地震で崩落した岩と言われているが、定かではない。歌川広重の「六十余州名所図会 丹波 鐘坂」に描かれた名勝でもある。
ここは氷上郡と多紀郡の境で、柏原と篠山を結ぶ丹波街道(篠山街道)の難所であった。登山道入口には古い道標がある。
丹波篠山市追入に「旧鐘ヶ坂峠の石標」がある。
ここまでは車で来ることができるが、ここからは峠道というより登山道である。説明板を読んでみよう。
旧鐘ヶ坂峠の石標
京・大阪から山陰・北陸へ抜ける西国街道の要所であった鐘ヶ坂は、古来から往来が激しく、大山側の峠入口に
正面:享保八癸卯七月日(1723年7月)
右 たんこミち 左 たしまミち
左面:施主間室理枚信女・一覚院心信士・雲信女
の石の道標が建っていました。
しかし、昭和三十九年鐘ヶ坂峠で二番目の昭和トンネル工事の時に撤去され、大山小学校前庭に移設されていたのを、平成二十七年二月に現在地の旧鐘ヶ坂峠入口に移設されています。
この道標は、市内最古の道標と云われています。
鐘ヶ坂峠は、急な坂道と九十九折り(つづら折り)の難所として知られ、江戸中期の寛政十一年(1799)には浮世絵師安藤広重が「六十余州名所図絵」として、「鬼の架橋」と「鐘ヶ坂峠越え」を描き、江戸期には全国有数の景勝地としても知られていました。
峠の頂上には「峠の茶屋」があり、旅行く人々の憩いの場だった、と伝えられ、今も茶屋跡が残されています。
平成三十年三月吉日建立
大山郷づくり協蒙会・大山音ばなしの会
今も峠の頂上付近にドライブインを見かけることがある。昔の道には必ずといってよいほど峠の茶屋があった。実際に歩いてみれば、峠で休みたくなる気持ちがよく分かる。
しかし、明治になって馬車が往来するようになると、峠をもっと楽に通過したいとの思いからトンネルが掘られた。明治十六年完成の「鐘ヶ坂隧道」である。さらに昭和半ばになって自動車が普及すると対面通行できるトンネルが求められ、昭和四十二年に「鐘ヶ坂トンネル」が開通した。
「鐘ヶ坂トンネル」の丹波篠山市追入側に、兵庫県知事金井元彦による「萬古清風」の扁額がある。明治トンネルには有栖川宮熾仁親王と三条実美による扁額があるそうだ。
ずいぶん前に国道から鬼の架橋を見たことがあり、その時にはこのトンネルを通って帰ったはずだ。峠越えには難がないが、高速で快適なドライブを可能とすべく平成十七年に「新鐘ヶ坂トンネル」が開通した。
さて話を戻そう。私は峠道を喘ぎながら登っているのだが、向かうのは峠ではなく城跡である。何といっても大河『麒麟がくる』でブームが期待される明智光秀ゆかりの城だからだ。
丹波市柏原町上小倉と丹波篠山市追入の境に「金山城本丸跡」がある。
山登りの途中では想像できないくらい広く眺めがよい。しかし強風に晒されるため、PRの幟がクシャクシャになっている。写真にはないが、支柱が折れて説明板が逆さ向きになっていた。それには次のように書いてある。
金山城物語
天正六年(一五七八)二月三木城主別所長治が織田信長に背きます。篠山盆地一帯を支配していた戦国大名波多野秀治は、この謀反を支援して他の丹波国人衆とともに一斉蜂起します。信長は明智光秀に征討を命じ、同年三月にその軍勢が丹波へ侵攻することになります。
秀治はその居城八上城にあって、氷上郡(現丹波市)にある黒井城の赤井氏と連携しながら、光秀に対し徹底抗戦を続けます。光秀はこの両者の連携を最も恐れていました。光秀には、天正三年(一五七五)に黒井城を攻めた際、秀治に背後から襲撃され京へ命からがら逃げ帰った苦い思い出があったからです。
光秀は、秀治と赤井氏との連携を分断するために、その後、ここに金山城を築きます。すなわち多紀郡(現篠山市)と氷上郡(現丹波市)の郡境にあって両郡を結ぶ交通上の要衝であったこの地は、両者の連携を遮断するに格好の地であったからです。これが功を奏したのか、八上城は天正七年(一五七九)六月ついに落城し戦国時代に勇名をはたせ波多野氏は歴史の舞台から消え去ることになります。
平成三十一年二月 一般財団法人大山振興会
黒井城については「都鄙の面目、之に過ぐべからず」でレポートした。光秀のその栄光は金山城を築くことによって得られたのかもしれない。交通の要衝を抑えるのみならず、標高540メートルのこの地からは黒井城を遠望することができる。
この日は午前に黒井城に登り、午後に金山城に登った。この機動性はさすがに自動車ならではだ。明智光秀が遮断に成功した多紀氷上両郡の交通は、明治、昭和、平成と三本のトンネルによって円滑に往来できるようになった。城跡には今日も風が吹き、草木を揺らしている。この風は地震で岩が崩落した時にも、光秀が城を築いた際にも、あるいは広重が鬼の架橋を描いた折にも吹いていたことだろう。「萬古清風」とはそういうことかもしれない。
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