光格天皇は数年前に脚光を浴びた。天皇陛下が退位され上皇となられたからである。これは光格天皇以来202年ぶりの出来事であった。その光格天皇は先代後桃園天皇の急逝により即位したが、生まれは閑院宮家で先帝とは7親等の隔たりがあった。今上陛下の直系祖先であり、英国の王朝に倣えば「閑院朝」の祖とでも呼べるだろうか。
その光格天皇のお母さまが倉吉市出身だというので訪ねてみた。
倉吉市湊町に「贈従一位大江磐代君誕生之地」と刻まれた石碑がある。
明治二十一年の建立である。磐代君には同十一年に正四位、三十五年に従一位が贈られた。ということは二十一年には正四位だったはずだが…。よく見ると修正した痕跡がある。どのような人物なのだろうか。金色の説明板を読んでみよう。
湊町公園
大江磐代君(おおえいわしろぎみ)という人がおんなった事、知っとんなる?
その女の人は江戸時代の中頃、倉吉の武士の家に生まれなっただけど、大きくなってから京都に行って宮様の側室になって、ええ子をいっぱい産みなったさーなーで。そん中の一人が後に光格天皇になんなっただって。
何でもその天皇さんが明治天皇の曾祖父さんだということですけー、こんな田舎からそんな偉い人が出なったのは、ほんにきょーさめーこったと思います。
この人は打吹公園の大江神社にも祀られとりますが、その大江磐代君が生まれなったのがこの辺だっちゅー事です。
「きょうさめえ」とはこの地方の方言で、驚きだとの意味である。確かに天皇の母は摂関家の娘というイメージだが、磐代君は倉吉の武士の出なのだ。身分制社会にあって聖上と田舎侍の娘がダイレクトにつながっている。このギャップがきょうさめえこった。
倉吉市仲ノ町の打吹公園に大江神社が鎮座する。
以前に後鳥羽上皇の寵姫亀菊ゆかりの出世亀菊天満宮を紹介したことがある。こちらは亀菊ではなく菅原道真公を祀っている。これに対して大江神社は天皇の母となった女性を祀っている。歴代天皇の数だけ母はいらっしゃるが、御祭神となった方は少ないだろう。それこそ大出世を遂げたという地元の誇りが神社創建の原動力である。説明板を読んでみよう。
大江神社由緒記
祭祀神 大江磐代君
延享元年(一七四四)倉吉湊町において、岩室常右衛門(のち宗賢)を父とし、おりんを母として生誕、幼名をお鶴といった。
宝暦二年(一七五三)九歳の春、父宗賢に連れられて京都に上る。幼時より怜悧、聡明であったが、天凛の玉質に加えて研鑽修養の努力を重ね、高い婦徳の備わった女性となる。
明和三年(一七六六)閑院宮妃籌宮成子内親王に見込まれて、侍女として仕える。明和七年(一七七〇)閑院宮典仁親王に召され親王の女房となる。翌明和八年(一七七一)王子祐宮兼仁親王が誕生、お鶴に磐代君の名を賜る。
安永八年(一七七九)後桃園天皇崩御のあと閑院宮家より祐宮兼仁親王が践祚、皇位を継いで光格天皇となる。磐代君は天皇のご生母となる。
明治三十五年(一九〇二)磐代君に従一位が贈位された。郷土の有志達あい謀って磐代君の遺徳を仰ぎ讃え、大江神社の建立を志す。
大正二年(一九一三)四月十四日この地に新築造営成り、世の尊崇を集めることとなった。それより半世紀、波瀾極まる春秋を経て、社殿の損傷激しくなり、平成九年(一九九七)一旦社殿を撤収清斎したが、郷土の有志達は改めて再建の意志を結集し、平成十一年(一九九九)桜花爛漫の春、ここに大江神社の復興再建が成った。
平成十一年四月十四日
本人の器量と努力、そしておそらく幸運にも助けられて天皇のご生母となった。その磐代君の母親、つまり光格天皇のお祖母さまは「おりん」という人である。
倉吉市新町1丁目の大蓮寺に「光格天皇御祖母 大江磐代君母堂 竟こと りん墓」と示された標柱があり、その後ろに墓碑がある。
墓碑には三つの戒名が刻まれているが、右端「貞誉遊林信女」が竟(きょう)こと「おりん」である。実家は堀尾家で堀尾吉晴の流れを汲むという。
倉吉市東町の大岳院に「第百十九代光格天皇御生母従一位大江磐代君 御母君 お林の方墓所」があり、「照月院秋室貞光大姉」と刻まれた墓碑がある。
お寺の由緒を記した説明板には次のようにある。
第百十九代光格天皇の御生母大江磐代君が当院檀中御出身の故をもって、磐代君と有栖川宮第六代織仁親王及び第七代韶仁親王の御三方の御尊牌をお祀りして、有栖川宮御祈願所の指定を受けている。
磐代君は閑院宮典仁親王の女房なのだが、有栖川宮家とはどのような関係があるのだろうか。調べると有栖川宮韶仁(つなひと)親王が光格天皇の猶子となっている。磐代君の孫が有栖川家ということになるのか。ちなみにこちらのお墓に関しては、お林は戦国武将山名氏豊の遺児駒姫の娘だと伝わっている。
また、家柄・身分など詳しいことは分かっておらず、一説には、田町で焼き餅を売って生計を立てていたとも言われている。貴種流離譚として語るかシンデレラストーリーとして語るか、物語は極端な内容にぶれやすい。
いずれにせよ、光格天皇を祖とする閑院王朝の末裔が今上陛下であり、光格天皇を女系でさかのぼれば磐代君、そして、おりんにたどり着く。現皇統の源流の一人であるおりんさんが、倉吉で焼き餅を売っていたとは。まさに皇室御用達の焼き餅であろう。
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