京都は全国各地に点在し「小京都」と呼ばれている。山陰の小京都と言えば津和野が有名だが、遠い道のりでまだ行ったことがない。今回は人形峠からの急坂で勢いをつけ、同じく「山陰の小京都」倉吉に行ったのでレポートする。
「小京都」は古い街並みや風情が醸し出すイメージである。倉吉のイメージは美しい白壁土蔵群から発しており、おしゃれなカフェなどが入っている。この倉吉市打吹玉川伝統的建造物群保存地区の建築年代は、江戸時代末期が数棟、明治時代中後期が約3割、大正期が約2割、昭和前期が約2割という構成だそうだ。意外に近代の建物が多いのは「小江戸・川越」とて同じこと。
建物は必ずしも江戸時代ではないが、江戸期からの伝統があればこその建造物群に違いない。倉吉には城下町、陣屋町という歴史がある。その中心地に早速行ってみよう。
倉吉市仲ノ町の市立成徳小学校の敷地は「倉吉陣屋跡」である。この地域の政治の中枢があった場所だ。
実際に背後に見える打吹山が描かれた説明板のおかげで、倉吉の原風景をイメージすることができる。説明板を読んでみよう
倉吉陣屋跡
倉吉は、室町時代に山名氏によって打吹山に城が築かれて以来、城下町として発展しました。一国一城令【元和元(一六一五)年】によって廃城となると、打吹山の北麓に鳥取藩の家老荒尾氏が陣屋を構え倉吉を治めました。陣屋の周囲には武家屋敷が建ち並び、その外側には町人たちの町が広がり、陣屋町、宿場町として大いに栄えました。白壁土蔵群周辺の町並みは往時の姿をよく伝えています。陣屋は現在の成徳小学校敷地にあり、石垣にその面影をみることができます。
領主として山名氏と荒尾氏が登場するが、もう少し詳しく調べてみよう。守護大名山名氏は戦国大名尼子氏の攻勢により衰退し、羽衣石城の南條氏の勢力下となる。関ヶ原で西軍についた南條氏の改易後は、中村一忠の米子藩領として従兄弟に当たる栄忠が倉吉を治めた。慶長十四年(1609)に中村氏の改易で天領となり、同十九年(1614)に里見忠義の倉吉藩が立藩したものの、元和三年(1617)に池田光政の鳥取藩領となり、重臣の伊木忠貞が倉吉を治めた。寛永九年(1632)の因備国替により池田光仲の鳥取藩領となり、重臣の荒尾嵩就(たかなり)が倉吉を治めた。
鳥取藩では重臣に地方統治を委任する自分手政治が行われ、嵩就の子孫である荒尾志摩家が一万二千石で倉吉を治めた。その系統は嵩就-宣就-秀就-勝就-甫就-斯就-厚就-為就-世就-直就と維新まで続き、華族制度では男爵を授けられている。
大名に匹敵する領主が治める要衝の地、倉吉。天下泰平の世にあって商業が栄えないはずがない。重伝建、そして小京都の基礎は、この陣屋のお殿さまが築いてくれたのである。
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