思い起こせば私が木造校舎で学んだのは二年間で、小学校1年生と中学校1年生の時である。少子化が進む今とは違って、教室が不足し鉄筋コンクリート造の校舎がどんどん建てられていた。大掃除でワックスを掛けた後の階段でよく滑ったことを覚えている。世間一般のイメージと同じで、木造校舎はノスタルジーの象徴である。
本日はずっとさかのぼって、津山藩が建て北条県が活用した木造校舎を訪ねることにしよう。
津山市山下(さんげ)の鶴山公園内に「鶴山館」がある。
天保のむかし、津山藩儒昌谷精渓(さかやせいけい)は「美作ハ海と学校之無之国と世上一統相唱可申、国家之耻辱」と嘆いたが、その津山藩に本格的な藩校「修道館」ができることになったのは廃藩間近な頃だった。もちろん廃藩となるとは思っていないから、気合いを入れて準備したことだろう。場所は今のNTT西日本津山支店のあたりだという。津山郷土博物館だよりNO.26(2000.4)では、次のように解説されている。
建物の着工は明治3年、計画では漢・洋・数学及び習字の各教場や生徒の寄宿舎を備えた本格的な学校として庶民にも門戸を開く予定であったが、工事中に廃藩置県を迎え、明治4年末に漢学教場のみ竣工(鶴山書院と命名)、翌5年正月の落成式挙行中に北条県庁から廃校を通達され、新校「修道館」は幻と消えた。
だが、時代は国民皆学の入っていた。学校の開設が急務となり、津山藩に代わった北条県はこの建物を「北条県中学」とした。入学できるのは八歳以上の男子。明治5年(1872)9月7日のことである。この学校の規則が『津山市史』第六巻現代Ⅰ明治時代に掲載されている。多くは手続きに関することだが、現代の校則に通じる内容もあるので抜粋しておこう。
一 屡(しばしば)規則を犯し不遜なるものは除名すべき事。
一 乱足禁止の事。
一 通学の生徒、事故なく十五日間欠席する者は除名する事。
一 廊下縁側等足音高く奔走すべからざる事。
今もむかしも男子はバタバタ走り回って叱られていたのだ。しかし、これも束の間、翌年8月30日で閉校となった。原因は財政難と人員不足だという。その後は様々な学校、そして役所として利用された。岡山県立津山高等女学校仮校舎として活用されたのち、明治37年(1904)に現在地に移転された。
海と学校のない国と揶揄された美作の人々は、教育に並々ならぬ情熱を注いだ。その嚆矢濫觴に鶴山館の建物は位置付けられるだろう。美しい石垣はあるが古い建物がない鶴山公園では、元の位置は異なるものの貴重な文化財である。いつまでも大切にしたいものだ。
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