琴風のがぶり寄りという波動砲はすごかった。必死感が伝わり見る方にも力が入る。千代の富士の好敵手として館内を沸かせた大関である。引退後は尾車親方として後進の指導に当たり、今年定年を迎えた。尾車部屋は閉鎖されたが、再雇用で協会に残って活躍している。
鳥取市湖山町北一丁目に「尾車文五郎墓」がある。
ゴホンと言えば、力士のお墓に参ればよいそうだ。その心は、関取(咳取り)だけに。このなぞなぞが紹介されていたのは、一昨年に鳥取市あおや郷土館で開催された「令和二年青谷場所 因州・鳥取の角力取」の図録である。
鳥取県に相撲部で有名な鳥取城北高校がある。横綱照ノ富士も在籍していた強豪校である。出身力士では横綱琴櫻がよく知られている。鳥取市内には力士塚が180基以上もあるそうで、そのおかげでもなかろうが、鳥取県累計感染者数は全国最少である。
本日紹介の尾車はどのような力士なのだろうか。まずは墓碑の正面を読んでみよう。
明治二十九年十一月三十日死去
東京相撲初代
尾車文五郎墓
鳥取県気高郡湖山之産
この地出身で江戸、東京で活躍した力士、親方のようだ。尾車部屋の初代親方なのだろう。墓所前の掲示板に地元の方が作成された説明が掲出されている。読んでみよう。
尾車文五郎(おぐるま・ぶんごろう)天保十二年~明治二十九年
本名小松芳五郎は天保十二年湖山村小松弥一郎の次男として当地湖山に生まれる。青年時代は大めし食い三升(一食一升)と云われた大食漢であった。餅が好物で二百個をたいらげた。子どもの時から力持ちで、大石を持ち上げて遊んだ話(石碑の傍に力石現存)等様々な逸話を残し、一六才の時に上京し、東京相撲(現・日本相撲協会)玉垣部屋に入門。シコ名勝山芳蔵、元治元年番付外、明治四年入幕、身長五尺八寸(一七五cm)筋肉質で、最高位は前頭五枚目、突っ張り、押しが得意であった。
明治十年五月三十七才で引退、十二月に年寄り初代尾車文五郎を襲名して、弟子の養成に力を入れ、大関大戸平広吉、大関荒岩亀三郎、横綱大砲万右衛門などを育てた。相談役・後援者に板垣退助伯、萬朝報社長黒岩涙香、郷土出身第百銀行池内謙三氏等、尾車一門の大のタニマチであった。この方々の協力があって湖山の尾車は大成したと考えられる。明治二十九年京都伏見の巡業先で卒中で死亡、居合わせた大戸平、大砲、荒岩がタブサを切り、側にあったサカヅキをかち割り後首を切り、後首部に悪血があると云って三人が交代でくい付き悪血を吸い取った。師匠尾車文五郎急逝により大戸平が親方の心を受け継いだが内実は苦しく、死後莫大な借金(十万円余り)があり、部屋に遺骨の安置もあやぶまれ、大戸平、大砲、荒岩が遺骨を背負って巡業に出た。遺骨を丁重に抱き、太陽の出る暑い日盛りは汗をぬぐい、寒い夜は自分の服を着せ、故親方に語りかけるなど、大切に守り通したという美しい師弟愛である。
明治三十一年四月湖山二本松に顕彰碑を建立し、タブサ、サカヅキの遺品を埋めて直弟子としての大任を終えた。
辞世の句「稲妻の去りゆく空や秋の風」
湖山地区自治会
子どもの頃に持ち上げたという大石がこれだ。
「尾車力石 十六才」とある。この歳に江戸へ出て「勝山」という四股名で相撲を取った。前頭五枚目までいったが、力士として名を残すほどではない。力量が発揮されたのは尾車部屋を興してからだ。説明に登場する弟子たちは、墓碑右側面にもその名を残している。
明治三十一年四月日建之
東京角力
二代目尾車事
大関大戸平廣吉
大関荒岩亀之助
横綱大砲万右エ門
一横綱二大関のうち部屋を継いだのは、大関の大戸平廣吉。この時点では現役力士でもあった。二代目(18世紀の力士を初代とすれば三代目)尾車親方としては、国技館を命名した人として知られる。もう一人の大関、荒岩亀之助は鳥取県出身力士。当県出身で大関以上に昇進したのは荒岩と琴櫻のみで、両者ともに伯耆出身だから、出世力士は西高東低である。そして大砲万右エ門は第十八代横綱。負けは少なかったが引き分けの多かった長身力士である。荒岩も大砲も明治三十一年の建碑当時は大関でも横綱でもなかった。
出世を遂げたのち、初代尾車の功績を称えるために追刻されたのだろう。そう思ってみると、大戸平まではバランスがよいが、荒岩と大砲は窮屈そうに見える。尾車部屋はいったん閉じられたが、いつの日か再興されたなら、この力士塚を思い出してほしい。ここ湖山は尾車部屋のふるさとなのである。