慶安御触書は慶安二年(1649)に発令とされていたが、どうやらその実体はなかったらしい。慶安四年(1651)の慶安事件、由井正雪らによるクーデターは未遂に終わったが、武断政治を改める契機となった。そんな時代の建築物が本日の出発地である。
岡山市北区御津新庄に市重文の「熊野神社本殿」がある。
どう見てもふつうの神社にしか思えないが、文化財指定されるだけの理由があるのだろう。説明板を読んでみよう。
岡山市指定重要文化財
熊野神社本殿 附棟札5枚
平成19年8月27日指定
構造形式:三間社流造 銅板葺
所在地:岡山市北区御津新庄
建立年代:慶安4年(1651)
棟札:天文21年(1552)、慶安4年(1651)、延宝4年(1676)
天保4年(1833)、萬延元年(1860)
天文21年(1552)の棟札が遺存するが、前身本殿の棟札とみられ、現在の本殿は慶安棟札に相当する建物である。
慶安期に建立後、延宝、天保、萬延と修理を重ねたことが棟札で辿ることができ、特に、天保棟札には、垂木や破風板、縁周りなど大きく仕替えたと記されている。
組物、妻飾り、蟇股などの彫刻類は建立当初のもの。
組物は、斗繰りが極端に深く、肘木からの立ち上がりが直立に近いため、実年代より古く見える要素の一つとなっている。
屋根は檜皮葺であったが、現在は銅板葺に改められている。
平成22年3月
岡山市教育委員会
慶安四年の建立で、組物、妻飾り、蟇股などの彫刻類が当初のままだという。とはいえ、時代による意匠の変遷を知らないから、ふつうにしか見えない。勉強不足を反省しつつ、本日の目的地に向かって神社の裏山を登ろう。
同じく御津新庄地内に「天狗古墳」がある。
麓でお参りした熊野神社は、紀伊の熊野三山を中心とした熊野信仰の末社であろう。熊野では山伏の修業がさかんだが、そういえば天狗は山伏の姿に似ている。天狗古墳の天狗は熊野神社の熊野と近い関係にあるのではないか。説明板は神社にあるので読んでおこう。
御津町指定重要文化財
天狗古墳
ここから北へ約四〇〇m、徒歩約二五分、熊野神社裏山の天狗山頂上の松林の中にあります。
墳丘径一六m、高一.四mの円墳です。
ほぼ完全に残っており、長さ三.七m、高さ〇.七m、幅〇.六mの横穴式石室が南向きに開口しています。
石室は小形の割石で、三、四段積み。奥壁は一枚石で、その上に一段程度の小石。奥壁、側壁ともいくらか動いており、封土上に大小の石材が散乱しています。
封土北東背後に数個の石列があります。
御津町文化財保護委員会
御津町教育委員会
天狗古墳は旧御津町内では文化財としての価値があったようだが、熊野神社本殿とは異なり、岡山市に合併後は指定から外れている。神社本殿は棟札の遺存により建築史が判明するという意義が認められたが、古墳のほうは市文化財の指定基準に達しなかったようだ。
確かに吉備地方の有名古墳ほど大きくはない。それでも天井石や奥壁は堂々としており、被葬者は新庄地区を代表する有力者だったのだろう。文化財指定なんぞ所詮、現代人の価値観に過ぎない。千数百年前、新庄の人々が最も価値を置いたのは天狗山に築いた墳墓であった。
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