ずっと前に白目に出血が見られたので、震え上がって医院に駆け込んだことがある。医者から見るとよくある症例だったのか、あっさりした治療で拍子抜けした。以来、おかげさまで眼科には行っていない。やはり、困った時に頼りになる人、それはお医者さまである。
岡山県都窪郡早島町早島に町重文の「清澄家住宅」がある。お名前のとおり清く澄んだ印象の瀟洒な建物で、貴婦人でも登場すればアニメか映画の舞台となるだろう。
岡山県の近代建築を語る上で欠かせないのが江川三郎八技師である。真庭市の旧遷喬尋常小学校校舎は代表的な江川建築で国重文に指定されている。清澄家住宅は確たる証拠がないものの、江川技師が関わった可能性があるという。そういえば左右対称の正面が遷喬小に似ている。説明板を読んでみよう。
町指定重要文化財
建造物 清澄家住宅(平成6年11月15日指定)
明治41年(1908)建築の洋風2階建住宅で、町内に残る唯一の明治洋風建築である。眼科医院として建てられたこの建物は、玄関を中心に左右対称の景観を見せ、両翼を張り出したコの字の平面となっている。
外壁は下見板張り、窓は上げ下げ窓とし各壁面に一つづつ開けられ、内部は和風と洋風部分に分かれている。1階別棟の客間は後年増築されたもので純和風、眼科医院時代の診療室は洋風となっている。
また、この建物は天井に特色があり、玄関土間の天井は銅板をプレスしたもの、診療室は打上げ天井、2階西側の小室は折上げ格天井にし、四隅の格縁に四角錘の装飾をつけて洋風の感じを出している。
内部の改変も少なく、明治の雰囲気を今に伝える貴重な資料である。
早島町教育委員会
内部は見ていないが、私は説明文を読みながら津山市の旧中島病院本館を思い出していた。純和風でなく純洋風でもない折衷主義建築である。近代へのあくがれを表象しているのだ。近代化は我が国にとって背伸びであり、つま先立ちのような不安定さを伴う。その揺らぎこそ、この建築の魅力だといえよう。
ここで眼科医院を開業したのは新見出身の若原丈次(わかはらたけつぐ)で、早島の地は夫人の郷里であった。この建物は旧若原眼科医院ともいう。三宅園市編『岡山県紳士録』(御大典紀念会、大正5)では、次のように紹介されている。
眼科医 若原丈次君
都窪郡早島町三四四
君は阿哲郡新見町の人、明治八年一月二日を以て生る、祖先は世々新見藩指南役たり
幼にして学を好み、笈を負ふて大阪に遊び苦学する事数年、蛍雪の功空しからず、医術開業試験に及第せしも、君尚足れりとせず、専門科医たらんとして東京に到り中泉眼科医院へ寄寓し、仝院の医長となり、傍ら東京大学医科大学に入り、明治三十六年卒業せり、後斯界の泰斗河本博士の経営せる河本医院に眼科部長として実地の修養に努め、其技大に進み、全三十七年帰県、早島町に眼科専門として開業せり、爾来多年薀蓄せる学識と其技能は相俟って患者の信頼を厚くし漸次隆昌に向ひ名医嘖々たり、君人と為り、温良篤厚にして仁侠に富み、情憫む可く、理輔くべきものあれは敢て辞せずと云ふ、亦以て其性行一般を見るに足らん乎。
「中泉眼科医院」の中泉家は名医の系譜で、現当主の中泉行弘氏は公益財団法人研医会理事長であり、同会の眼科診療所で地域医療に貢献している。明治時代に軍医として活躍したのが中泉正、眼科医として開業したのは養子の行徳である。行弘氏はその曾孫にあたる。
「斯界の泰斗河本博士」は河本重次郎で、多くの門弟を育成し、日本近代眼科の父と呼ばれた名医である。若原丈次も門弟の一人であった。中央で研修したことが地方で生かされ、国全体の水準が上がっていく。近代医療普及の最前線が、若原眼科医院だったのである。
この眼科医院は同時代の人々にはずいぶん眩しく見えただろう。病気への不安を和らげてくれる場所だったに違いない。近年の病院もまた、明るく爽やか、居心地のよい空間に生まれ変わっている。ホラーか権謀術数の舞台のような昭和のイメージを抱いていた私には、希望の光が射し込む癒しの空間に映るのだ。
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