我が国の古代には様々な謎があるが、前方後円墳の出現もその一つだ。あの形はいったい何なのか。前やら後ろやらは後世の人が勝手に決めたことだ。鍵穴というが、当時そんなものはなかったし、今の鍵穴はそんな形状ではない。
前方後円という墳形が一気に全国展開するのも、何か意味があるはずだ。本日は弥生墳丘墓だとも初期古墳だとも呼ばれる古い墳墓を訪ねよう。見た目は大したことないが、その存在意義は極めて大きいという。
岡山市北区西花尻と東花尻の境にある庚申山に「矢藤治山古墳」がある。矢藤治山弥生墳丘墓とも呼ばれる。南北方向の前方後円墳で、写真は北側に位置する後円部を西から見ている。
古いお墓をみな古墳と呼ぶのではなく、古墳時代のお墓を古墳という。したがって、弥生時代のお墓は弥生墳丘墓と呼んで区別している。矢藤治山古墳が弥生墳丘墓とされるのは、時代の境目に位置しているからだ。説明板を読んでみよう。
矢藤治山(やとうじやま)古墳(岡山市東花尻六一四)
矢藤治山古墳は吉備中山の南面する尾根上に築かれた前方後円墳である。墳長約三五・五メートル、後円部の高さ約三メートル、前方部は撥形(ばちがた)を呈し、長さ約一一・ハメートルで南面する。終末期の特殊器台と特殊壺が前方部の付け根あたりに多く発見され、撥形前方部と共にこの古墳の古さを物語っている。また斜面には角礫からなる葺石がある。
後円部の中心のやや東よりに長さ約二・七メートルの竪穴式石槨(せっかく)、その中には長さ約二・五メートル幅約八五センチの木棺の痕跡が認められた。棺底には赤褐色粘質土が見られ、そこから中国製の方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)一、大形硬玉勾玉(こうぎょくまがたま)一、ガラス小玉五〇が発見された。鏡と勾玉は打ち欠かれ、小玉は散乱の状態で副葬されていた。遺体は腐朽していたが、頭部を北に置かれたと推定される。ほかに棺外南側に鉄斧一が見られた。前方部にも木棺の痕跡が認められた。発掘は一九九〇年から九二年にかけ同好有志により行われた。
以上のように本古墳は、撥形前方部・終末期特殊器台と特殊壺副葬品の組合せからみて最古型式前方後円墳であり、吉備における最も重要な遺跡の一つと判断される。
一九九六年三月
矢藤治山古墳発掘調査団長 近藤義郎
岡山市吉備地区地域活性化推進実行委員会
ここでは終末期の弥生墳丘墓ではなく、最初期の古墳に位置付けられているようだ。その墳形は撥型の前方後円墳。最初期の古墳とされる箸墓古墳も撥型である。
後円部には四等三角点「矢藤治」84.5mがある。カメラは前方部に向いており、高まりが続くことが分かるが、撥型という墳形まではよく分からない。重要なのは矢藤治山と箸墓の両古墳に共通する墳形、特殊器台や特殊壺という出土品である。両者には密接なつながりが考えられるのだ。
それでは、どちらが先に造られたのだろうか。吉備が大和の影響を受けたのか。それとも大和に影響を与えたのか。大和に成立した王権と吉備との関係性をどのように捉えるかに関わる問題だ。
箸墓の被葬者を卑弥呼とするならば、かなりの重要人物が矢藤治山に葬られているのだろう。卑弥呼が吉備の系譜をひく証拠なのか。吉備の豪族が大和王権から墳形の許可をいただいたのか。中国製の鏡はどのような意味をもつのか。分からないことだらけだが、ちょっとした散策にはちょうどよい史跡である。
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